第3回「第二創業者 中村喜久蔵その1」 | たんす屋創業者 中村健一の回顧録

喜久蔵、学徒動員のおり

私の父、中村喜久蔵は昭和36年(1961年)12月18日に日本橋芳町にて東京山喜株式会社を創業しました。これは、すでに第二回でも記述したことです。そこから約61年、東京山喜は存続しました。父の喜久蔵が32年、私が29年社長を務めたことになります。中村喜代蔵商店が創業から18年で国民総動員法により休業になった後、再開を果たせぬまま、喜代蔵の死去とともに廃業しました。

中村喜代蔵商店の18年と東京山喜の61年を合算しても79年で、本年2月の創業100周年には21年足りません。そこには、中村喜代蔵商店の休業期間の9年間と山喜商店時代の12年間があります。ここで、東京山喜の前身である山喜商店について説明させて頂きます。

父、喜久蔵は、立命館大学法学部に在学中、学徒動員で帝国陸軍に入隊しました。室木社長の大先輩ですね。父は幸運にも外地に行くこと無く終戦を迎えます。実家に戻ると祖父の喜代蔵は病の床に臥しており、引き続き贅沢品の呉服の統制は継続していて事業の再開の目処はつかない状況でした。

喜久蔵は大学に復学しますが、長男であった父は、6人の兄弟姉妹と実母が若くして亡くなったゆえにこられた後妻さんの生活を支えるために、大学に通いながら闇で事業の再開を模索します。

喜久蔵、立命館大学に復学して(当時は広小路校舎)

当時の室町の呉服関係の休業中の企業は、同様の環境下で呉服の商い再開を手探りするなか、闇取引で五条署に捕まったといった話はよく聞きました。一番の末っ子は昭和17年生まれですから当時まだ3歳の乳飲み児です。戦後の食糧難で栄養状況も良くないなか、喜代蔵の容態はどんどん悪化し昭和24年(1949年)に他界しますが、今際の際の枕もとに長男喜久蔵を呼び、「喜久蔵、お前がいるから後は安心や」と言って息を引き取ったそうです。時に、祖父喜代蔵満53歳、父喜久蔵は満24歳でした。室木社長のお父様がお亡くなりになった時に、室木社長は満26歳でしたので、時代背景も経営環境もまったく異なりますが、ある意味でちょっと似たような状況かもしれません。

この時、西陣の仕入先、御霊前の山田織物から闇で御召を仕入てかつてのお得意先に卸していた様ですが、山田織物の三男の山田得三郎氏に若き中村喜久蔵が惚れこまれます。山田得三郎は機屋の三男坊でしたので、室町に出て呉服問屋を起業しておりました。戦前、中村喜代蔵商店は大のお得意先でしたので、そこの長男を自分の長女と結婚させて、共同経営で室町二条に株式会社山喜商店を昭和24年(1949年)、創業しました。山喜の山は山田の山、山喜の喜は喜久蔵の喜です。この山喜商店が、統制の解除後順調に業様を拡大して、昭和34年(1959年)に東京支店を日本橋芳町に出店します。山喜商店創業の地が、室町通り二条上ル西側で、生まれて以来今日に至るまで、ここが私の本籍地です。つまり、山田得三郎は私の母方の祖父になります。

山田得三郎夫妻、母方の祖父母です

戦時中に京都市内も空襲のリスクがあると思った祖父は、右京区鳴滝に疎開のための家を購入します。祖父から聞いた話では、江戸時代に御殿医(天皇陛下を診るお医者様)が住居にしていた家だそうで、土地は約700坪、母屋以外に立派なお蔵、大きな納屋、趣きのある茶室、そして広い日本庭園、更に裏には畑もありました。私は、ここで昭和29年(1954年)に生まれました。

京都の方はご存じかと思いますが、古い京都の家は、むし暑い夏をやり過ごすために設計されています。つまり夏場の風通しを最優先した住居ですので、冬場はとてつもなく寒くなります。当時は暖房と言っても火鉢がメインでしたので、私の最初の記憶は寒くて泣いている思い出です。母親も子供の頃の私の手足は冬場はずっと霜焼けだったと言っていました。

後年、井筒監督の映画「パッチギ」を観たおりになんとも言えない懐かしさを感じました。「パッチギ」は1968年の京都市内が舞台ですが、主人公の康介は高校2年生、康介がひと目で恋に落ちる在日コリアンの慶子(キョンジャ)が高校1年生で、この時私はすでに東京に引っ越しておりましたが、学年で言えば中学3年生でキョンジャ(沢尻エリカ)の一つ年下です。鳴滝の生家のお隣りは金川さんでしたが、間違いなく在日コリアンで、金(キム)さんご一家のお祖父様は朝鮮学校の校長先生でした。

私の一番最初のお友達は金川さんのヨンちゃんでした。当時は、4人兄弟の末っ子でヨンちゃんだと思っていましたが、後で思えばおそらく「ヨンチョル」とか「ヨンピル」と言う名前で朝鮮の方には、容の字が結構ポピュラーで、発音がヨンだと知って腑に落ちました。よくヨンちゃんの家に遊びに行くのですが、ご両親とおじいさんおばあさんは朝鮮語で会話されていましたのでひと言もわかりませんでしたが、物心ついた頃からいつも行っていましたので、その事を不思議に思ったことはありませんでした。

前列でしゃがんでいるのが筆者で、後列の中腰がヨンちゃん、鳴滝の生家にて

小学校の1年生か、2年生のころ、そのお祖父様が亡くなられました。偉いお祖父様でしたので、結構、盛大なお葬式がご自宅で営まれます。これが我が人生で最初に体験したお葬式でした。ご存じの方もおられると思いますが、朝鮮のお葬式には、規模に応じてプロの「泣きや」さんを呼ばれます。お祖父様は朝鮮学校の校長先生でしたので、弔問の方も少なからず、多くの「泣きや」さんを呼ばれていました。塀一枚隔てたお隣りでしたので、「アイゴー、アイゴー」と言う泣き声が耳朶に残っているのが、私の原体験です。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

たんす屋創業者
1954年 京都生まれ。1979年 慶応義塾大学卒業後、祖父が京都で創業し、約80年の歴史を持つ老舗呉服卸店 東京山喜株式会社入社。1993年 代表取締役社長に就任。1999年 リサイクルきもの「たんす屋」事業を立ち上げ、それから僅か7年弱で100店舗を超えるまでに成長を遂げる。2001年 同事業にて第11回ニュービジネス大賞 優秀賞を受賞。2006年 商業界より『たんす屋でござる』を出版。2020年4月 コロナウイルス感染拡大に伴った緊急事態宣言発令の影響もあり、民事再生法の適用を申請。同年9月にまるやま・京彩グループにたんす屋事業を譲渡。現在はまるやま・京彩グループの顧問を務めている。

目次