第5回「第二創業者 中村喜久蔵 その3」 | たんす屋創業者 中村健一の回顧録

NHK仙台放送局の特集に出演した際の喜久蔵

本年9月21 日土曜日に、父 中村喜久蔵の十三回忌を京都、三条蹴上の佛光寺本廟にて取り行う予定です。

喜久蔵は2012年10月に他界しました。満86歳です。自宅で就寝中に脳梗塞を発症し、救急車で杏林大学病院に搬送され、その後意識が戻ること無く一週間ほどで亡くなりました。それまで、比較的元気でしたので天寿を全うしてくれたのではないかと思っております。

ちなみに同じ年の12月に亡くなった、喜久蔵の腹違いの弟喜代治の十三回忌も、同じお墓に眠っていることもあり、兼ねさせていただく予定です。喜代蔵の後妻さんには、喜代治、安男、修身の男性3人と女性1人、照子がおりました。

喜代治は、弟二人と一緒に六角通り室町西入北側で、昭和30年代の中頃に呉服問屋中喜株式会社を創業します。京朋さんが室町御池上ルから移転された美濃利ビルの真向かいですね。喜代治が社長、安男が専務、修身が常務です。

中喜は東京山喜の兄弟会社ですが、この中喜の跡継ぎに成るべく専務、安男の長男光宏さんが大学卒業後、東京山喜に5年の予定で修行に来ました。結果的に5年の修行が終了した時点で中喜の喜代治社長は、中喜の将来を見据えて帰らないように指示します。光宏さんは非常に不本意であったと思いますが、結果的に1997年に中喜の東京店を店長の修身常務ともども東京山喜が引受け、その後数年で中喜が廃業に至った経緯を考えると良い判断であったと言えるでしょう。

さて弟の太一郎を専務に東京山喜を創業した喜久蔵は、京友禅を主力に展開して来た山喜商店とは異なる戦略を打ち出します。目を付けたのは東京手描き友禅。京友禅の「雅」に対して東京手描き友禅は「粋」が売りです。

昭和30年代から40年代、50年代に東京御三家と称された専門問屋は、北秀、菱一、近藤伝です。中でも北秀は三越本店、銀座きしやを主力顧客にもち、日本橋浜町にイタリアから直輸入した白亜の大理石で聳え立つ本社屋が眩ゆいばかりでした。北村芳嗣社長は京都出身でしたが慶應ボーイ。毎年開催される「芳嗣展」は新作高級呉服の最高峰で、「芳嗣展」を支えた中心が新宿区中井にあった染色工房「美研荘」です。川崎一与四さんが当時は代表をされておられましたが、東京手描き友禅の数ある工房の中でもずば抜けた工芸力と磨きあげたセンスを誇り、とくにロウケツ染を得意にされておりました。

後発の東京山喜を率いる喜久蔵は、絵を描くことが得意だったことを活かし、社内にデザイン室を開設して武蔵美や多摩美の卒業生を採用し、自らも着物や帯の図案をおこし東京手描き友禅のオリジナル創りに邁進します。そして、1969年(昭和44年)当時開業したての話題の赤坂東急ホテルで、第1回「中村喜久蔵展」を開催しました。これは新作呉服の発表受注会で、4月に開催し、ほとんどを8月21日に納品するパターンです。これは多くの呉服専門店が9月に新作呉服の発表会を開催するのに合わせての受注会でした。このあと「中村喜久蔵展」は29年間東京山喜の看板催事になります。京都の室町や西陣から仕入た商品だけでは、どうしても同業他社との価格競争になり、粗利益を取りずらい環境下、自社のデザイン室で創作したデザインに基いて染め出した商品は他社に類似品が無く高い粗利益を実現してくれました。喜久蔵が目指したものは、規模的な拡大ではなく、着物業界でオンリーワンの存在になることだったと思います。

喜久蔵は絵を描くこと以外にも俳句が好きで、水原秋桜子に師事し馬酔木の同人でもありました。この強みを活かした企画が松尾芭蕉没300年記念の「着物で辿る奥の細道展」です。これは、松尾芭蕉が巡った奥の細道、千住をスタートして東北地方から北陸地方を周り岐阜の大垣で終わるのですが、このルートに合わせて喜久蔵が染め出した奥の細道縁の着物や帯を各地の地域一番店で展示即売会を開催しました。平成6年(1994年)宮城県の多賀城では、地元七ヶ浜の稲妻呉服店さんで「着物で辿る奥の細道展」を開催させて頂きましたが、NHK仙台放送局がお正月番組で特集して頂き、喜久蔵が元旦の番組に生出演させて頂き、大好評を頂戴します。この企画のお陰で、鶴岡の小いけさん、富山の牛島屋さん、大垣のヤナゲンさんといった地域一番店とお取引が始まりました。

NHK仙台放送局の特集

前出の北秀商事が平成10年(1998年)の正月に倒産して以降は、東京山喜が東京手描き友禅のリーディングカンパニーと自負しておりました。因みに、前年の暮れに北秀の若社長北村公光嗣さんと熱海の大観荘で一泊泊りの忘年会をしておりましたので、非常に驚いたことを今でもよく覚えております。公光嗣さんは、幼稚舎からの慶應ボーイで卒業後は三菱銀行に就職し、お父様の芳嗣社長の体調不良で跡継ぎに成るべく北秀に副社長として戻られ、お父様の死去に伴ない若くして、社長に就任されておられました。私はこの時、日本橋の呉服専門問屋のリーディングカンパニー北秀の倒産を目の当たりにして「堀留の終わりの始まり」を強く実感することになります。

喜久蔵は社長を私に譲り、会長になって以降は「報告は欲しいが相談はいらない」と言って役員会にも出席せず、ライフワークとして「きものコレクション 東京手描友禅・東京染小紋」のタイトルで約200点のコレクションを個人的に完成させました。創業80周年記念のイベントとして平成16年(2004年)に国際フォーラムでこのコレクションの発表会を開催できたことは、このコレクションの図録に喜久蔵が最も尊敬する、平山郁夫画伯から推薦文を頂戴できたことも含め父親の生涯の集大成になったと思います。

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この記事を書いた人

たんす屋創業者
1954年 京都生まれ。1979年 慶応義塾大学卒業後、祖父が京都で創業し、約80年の歴史を持つ老舗呉服卸店 東京山喜株式会社入社。1993年 代表取締役社長に就任。1999年 リサイクルきもの「たんす屋」事業を立ち上げ、それから僅か7年弱で100店舗を超えるまでに成長を遂げる。2001年 同事業にて第11回ニュービジネス大賞 優秀賞を受賞。2006年 商業界より『たんす屋でござる』を出版。2020年4月 コロナウイルス感染拡大に伴った緊急事態宣言発令の影響もあり、民事再生法の適用を申請。同年9月にまるやま・京彩グループにたんす屋事業を譲渡。現在はまるやま・京彩グループの顧問を務めている。

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