
引用元:太鼓台列伝2016・加麻良神社【香川県観音寺市流岡町】
かつて、初めて新規開拓で営業に出た折には、ひたすら足で稼ぐ地道な活動をしておりましたが、今回は中国刺繍着物全国普及協会が主催し、地域の日中友好協会が共催、中国大使館文化処が後援する「中国刺繍展示販売会」を開催して頂ける地域一番百貨店を探しております、というふれ込みで百貨店催事を受注しに行くわけです。
日中友好協会は全国組織で、県や市の協会の会長はほとんど地元の名士がなっておられましたので、会長名で地域の日中友好協会の事務局長に百貨店の催事担当者とアポイントを取っていただきました。そして、最初のうちは私が本部の事務局長 坂田さんと一緒に催事のプレゼンに行きます。
もし仮に、日本橋堀留の呉服問屋の商品部課長が、京都の着物メーカーが作った中国刺繍の着物を、取引口座も無い百貨店の呉服の仕入担当者に売込みに行ったとしても、口座を開設して頂きお取引が始まる可能性は限り無くゼロでしょう。しかしながら、当時の時代の潮流は今と違って圧倒的な日中友好ブームです。更に竹のカーテンに隠れていた中国の伝統工芸力は刺繍に於いても、明綴に於いても日本国内ではとても再現できないレベルの精緻さでした。そしてその産地が呉服のルーツである呉の国の都であった蘇州です。
更にこの催事を中国大使館文化処に後援して頂けました。極め付きは、地元の日中友好協会が共催するので、日中友好協会の会員の方々が全力で集客して頂けるという仕組みです。百貨店の催事担当者にすれば、今、旬の商品と売手とお客様がセットになった企画であり、NOを言えば他の百貨店に行く事になるわけですので、非常に高い確率で次々と催事の受注が進捗して行きます。
そして催事が決まれば、地元の日中友好協会と地域一番百貨店が一緒にプレスリリースをして頂けました。ここでも日中友好のトレンドと日本の伝統衣装の着物文化と中国伝統工芸技術の一体化が話題になって事前の新聞記事になり、オープン初日には地元テレビ局が取材に来てくれます。それらのメディア効果も後押しをして毎回期待を上回る売上を作っていきました。
第一回目は、1984年(昭和59年)の横浜松坂屋での催事でした。実はこの時は実績が無かったので、地域一番百貨店ではないが神奈川県日中友好協会の人脈があった横浜松坂屋に最初のプレゼンをさせて頂いたのです。結果的に成功させて頂き、その翌年からは横浜高島屋での開催になりました。この催事で、メジャーな百貨店と地方の地域一番百貨店のほとんどのところと口座開設をして頂き、この後約5年で200回以上も開催させて頂くことに。
その催事受注に初めて異変を感じたのが、1988年(昭和63年)の高知大丸へのプレゼンでした。四国では松山の伊予鉄そごうで大きな成果が出て、徳島そごうも成功し、高松三越も翌年の5月に2回目の開催が内定しておりました。当然、高知大丸も開催を期待してご提案に行きましたが、この年の3月に高知学芸高校の修学旅行列車が上海嘉定県で起きた列車事故に巻き込まれます。その事故で生徒と引率教員合わせて63人が死傷した大惨事を受けて、地元百貨店としては当面中国をタイトルにしたイベントは差し控えたいと返答を受けました。しかしながら、この事故の影響は高知県にとどまる限定的なものでしたので、さほどダメージを感じることはなかったのです。
実際のところ、翌年の高松三越の催事は高知学芸高校の事故の影響も無く、6月6日から1週間の催事日程が決まりました。しかしここで想像もつかない事件が勃発します。ご記憶の方も多いと思いますが、1989年6月4日は現在も中国では禁句のあの天安門事件が起こった日でした。
いつものようにオープニングセレモニーには、地元の香川県日中友好協会の会長、開催百貨店の店長、そして後援して頂いた中国大使館の文化担当参事官がテープカットをし、その模様を地元メディアが取材する段取りです。高松三越からは、前日に急遽「中国刺繍展示販売会」の中止のお知らせがきました。
私は既に前日に催事準備で高松入りしておりましたが、今でも「中国刺繍着物展示販売会」の大きな懸垂幕がガラガラと引き上げられるのを茫然と見ていたのを記憶しております。こればかりは百貨店サイドの決定に従わざるを得ません。大至急、日中友好協会の本部の事務局長坂田さんに催事中止を連絡し、大使館からの訪問を止めて頂ける様にお願いします。しかし、大使館からの返答は「北京では何も起きておりません。予定通り明日は高松入りします。」でした。
慌てたのは香川県日中友好協会の方々です。さすがの日中友好協会の事務局長坂田さんも中国大使館の「何も起きておりません。」にはあらがえなかったようでした。実際は、催事初日の朝一番の飛行機で高松入りした中国大使館の方々を、香川県日中友好協会の会長以下でやむなく高松観光をしていただくことで、お茶を濁し東京にお帰りいただいたそうです。
催事は中止になったものの既に準備は終わっており、私も商品だけ置いて帰るわけにもいかず途方に暮れました。何もできない1週間が、この後思いもよらないチャンスを与えてくれることになります。
地元の香川県日中友好協会の会長以下会員の皆様方は、催事の中止で困惑している私を見てとても可哀想に思っていただいたようでした。そこで、二つの具体的なご提案を頂戴します。
一つ目は、観音寺市の市会議員をしておられた会員様で大西さんという方が居られ、その方から地元に秋祭で使う太鼓台という山車の刺繍の飾物を中国で作ってくれないかと、前年の第一回目の高松三越での中国刺繍着物展示販売会のあとご依頼を受け、その後蘇州で制作を開始しておりました。国内での相場価格と比較して格段に安い価格で受注したので本当に満足できるクオリティなのかを実際に確認したいとお申し出がありその年の3月に私が引率し、香川県日中友好協会として、蘇州の工場を見学しておりました。大西さんは、天安門事件の影響で秋祭りに太鼓台が間に合わないのではないか。もしそのような事態が発生すれば自分は町内の方々にお詫びもできない。是非早急に訪中して納期の厳守を確約して来て欲しい。とのリクエストでした。
二つ目は会員様のなかで、地元企業で当時通販業界のリーディングカンパニーのセシールの正岡道一社長を紹介するので、売込みに行ってはとのご提案を頂戴しました。二つともやや的はずれなご提案にも思いましたが、高松で急遽時間ができましたので、先ずは企画書を作りセシールに新規開拓の営業に行きました。