
着物の小売店の運営経験がまったくない東京山喜が、たんす屋を1999年9月1日にJR船橋駅の駅ビルシャポーに催事出店してから、わずか一年後に全国26店舗を展開し、リサイクル着物業界のリーディングカンパニーになりました。そして2001年1月には、ニュービジネス大賞優秀賞を受賞します。
これを可能にした最大のエネルギーは、従来の呉服問屋業の行き詰まりです。着物業界の方ならばご記憶の方も多いと思いますが、2000年5月に京都室町の大手呉服問屋 丸勝が、そして10月には呉服問屋最大手の荒庄鳴河が倒産しました。1990年のバブル崩壊以降、従来のフォーマル化、高額化で市場規模の維持を目指してきた着物業界はついに限界を迎えます。弊社もご多聞にもれず、売上の減少、在庫過多、回収の遅延でキャッシュフローが悪化しておりました。
たんす屋1号店で体験したことは、すべてが異例ずくめでした。当初2か月の催事出店でしたので、内装費ゼロで、アメリカ屋靴店の内装と棚をそのまま使って営業開始。売上金は問屋業と違って集金に行く必要もなくすぐ入金されますので、このビジネスモデルがキャッシュフロー上大きなプラスになることを直感しました。リサイクル着物の粗利益率が約80%で、月商600万円で粗利益約480万円。人件費と諸経費合わせて約100万円で、店舗段階の初月度の一次利益は約380万円でした。そして売上金の約85%の510万円がすぐに振込まれます。これは、永年呉服問屋業で売上の増加は在庫増、売掛金増加、受け取り手形残の増加で運転資金が必要になるというトラウマからの脱却でした。
11月1日には赤羽ビビオで、12月1日には荻窪タウンセブンで次々とオープンが決まります。更に船橋駅ビルシャポーからは、2か月の催事出店以降は場所を変えて正式に出店して欲しい旨のオファーを頂戴しました。その場所を見に行って驚きます。なんと、東京ますいわ屋さんとお取引を中止して以降、最大のお得意先の一件である「やまと」の隣でした。
すぐに矢嶋孝敏社長の顔が浮かび、即刻アポイントを入れて新宿の本社に伺いました。呉服問屋がお得意先の隣に着物の小売店を出店するなどと言うことは、いわば自殺行為です。意外なことに、結果的に矢嶋社長からは、快諾をいただきました。更にたんす屋の船橋駅ビルシャポー店のリニューアルオープンを見に行った矢嶋社長から、年末にたんす屋のビジネスモデルの詳細を知りたいので、年明けにやまとの経営幹部に説明をして欲しい旨のご依頼を頂戴します。
たんす屋の船橋店、赤羽店、荻窪店の3店舗の詳細な経営指標を解説させて頂き、結果的に「やまと」からはたんす屋のFCになりたい旨のオファーを頂戴し、2000年4月に千葉県の稲毛で「やまと」の隣にたんす屋のFC1号店がオープンします。ここから「やまと」は約50坪〜60坪程度ある広い店舗を圧縮して約15坪程度のスペースを空けることでたんす屋のFC店をオープンするモデルを作り上げ、短時間で川崎アゼリアや横浜ポルタをはじめ14店舗のたんす屋FC店を運営するフランチャイジーになっていただきました。
急速に多店舗化するたんす屋にちょうどこの頃、着物の小売店の運営ノウハウを持ったエキスパートが来てくれました。彼は大学卒業後「さが美」の前身の「ほてい屋」に入社し、「さが美」では組合の委員長、更に営業部長を務め、その後「三松」に転職し営業部長を歴任したキャリアの持ち主です。従来の着物専門店の営業手法に限界を感じて二度と着物業界には戻らないと思っていたそうですが、偶然にも弊社に来られる機会があり、たんす屋のビジネスモデルを目の当たりにして参画してくれました。
それまで着物の小売店運営の経験者不在の中、見よう見まねでやってきたたんす屋は、一気に多店舗化の仕組み作りを確立することができました。中でも彼の人的ネットワークは素晴らしく、「さが美」や「三松」のOBを次々とリクルートしてくれました。彼らの多くが本部で中心的役割を果たし、また個人で店長を経験した後、FCの個人オーナーになっていただくことになります。
一方で商材は、ご家庭に出張買取を行うと同時に店舗でも買取を行うことで多店舗化に対応していましたが、ここから大きなエンジンになった商材が呉服問屋としての膨大な在庫でした。長期滞留の反物や仮仕立ての着物を中国でLサイズに仕立上げて店舗に投入することで、リサイクル着物で寸法が大きい商材が不足している問題を解決すると同時に、不良在庫という呉服問屋最大の問題を短時間で解決の方向に進められることに。10億円になんなんとする呉服問屋の在庫を、中国で裏地をつけて仕立て上げることで、急成長するたんす屋の成長のエンジンに転換することができました。
これが、たんす屋を着物業界に於ける初のSPAと位置付けるコンセプトから産まれたビジネスモデルだと思っています
