創業147年、グループ連結で年商300億円を超える大手総合海運・物流会社の六代目後継者は、何故その立場を捨て、たった一人で起業したのか。一見、典型的なお家騒動にも見える事業承継の裏側には、ただ会社を継ぐだけでは満足できない、まさしく第二創業を実現しようとした後継者の姿があった。
神戸の下町で生まれ育ちました。実家の裏に会社の社員寮があったので、小さい頃から社員の人と遊んだり、実家で一緒に食事をしたりしていたので、今思えば家業との距離感がとても近い環境であったと思います。
家業の創業は1877年で、私の父親が五代目でした。創業から現在に至るまで、神戸港に関わる物流を主な事業としています。戦前から台湾との結びつきが強く、ビジネスも盛んに行っていたようです。当時は神戸まで電車で来て、神戸港から船に乗って台湾や中国本土に仕事で出向く人たちが多く、その人たちが神戸で一泊するための旅館も経営していました。また、台湾現地でも滞在するための旅館を運営するなど、手広くやっていたようです。
創業者はそれだけにとどまらず、日本で初めて鉄道の食堂車を手掛けたり、水力発電や電鉄会社、はてまた映画会社の日活などへも、出資や役員を務めるなど、本当に色々なことを手掛けていました。
その背景には、創業者が佐久間象山の弟子であったことも影響しているようです。同郷であった佐久間象山と一緒に東京に出てきて、横浜で仕事をしていた折、神戸港が開港するから神戸で物流の仕事をしようとしたのが始まりだったと聞いています。
小学生の頃に、自分の家が普通ではないことを自覚し始めました。社員寮の寮母さんが身の回りの世話をしてくれていたことや、休みの日には社員寮に行って社員さんとキャッチボールをしたり、会社の運転手さんが家や学校に迎えに来てくれたり、今振り返ってみれば普通とは言えませんよね。
中学受験をして中高一貫の進学校に進学しました。小学生の頃から会社を継ぐことを意識していて、勉強する環境を手に入れるためです。大学受験に向けて文理選択をする際、自分はどう考えても理系の頭だと思っているのですが、会社を継ぐことを視野に入れて、文系科目が苦手な自分でも英語・数学・社会で受験が出来る慶應義塾大学の経済学部を志望することに決めました。
無事大学に合格した後は至って普通の大学生活を送ります。ただ、大学生の頃から自社の倉庫でのアルバイトや、物流システムのプログラム開発などで家業には関わっていました。というのも、家業である物流業というものが、具体的にどういう仕事なのかのイメージが出来ていなかったこともあり、知りたいという欲求が強かったのだと思います。
就職活動も行いましたが、家業に戻ることが前提であったため、あまり身も入らず、結局静岡で家業と同業を営んでいる会社に、預かりのような形で入社しました。入社当時は現場仕事が主体で、大学の同級生たちが外資系の金融機関などで華々しく働いているのを横目に、葛藤を覚えることもありましたね。と言っても、家業に戻って自分自身で新しい仕事を開拓していく中で、そのような気持ちは無くなっていきましたが。
静岡の物流会社で3年勤めた後に、家業の会社に入社します。入社後、既存事業に関しては全ての部門・現場に入って行って、一つ一つ業務改革を行っていきました。現場からの反発などはあったのかもしれませんが、いずれ自分が継ぐ会社をより良くするためにやっているという意識でしかなかったので、あまりそういう声は気にしていませんでしたね。元々個人の特性として、そういうことがあまり気にならないから改革を進めることが出来たのかもしれません。
入社後2〜3年は既存事業の改善・改革がメインでしたが、それ以降は地元の経営者同士の横の繋がりが増えてきたこともあり、自分自身で新しい仕事を受注して、進めていきました。
特に既存のコンテナでは運べない、大きな物を運ぶプロジェクトが楽しかったですね。H2Aロケットの蓋の輸送を手掛けたり、風力発電の部品なども運んだり。今までに一番大きかったものは、800トンの原子力発電所の部品でした。そういう前例が無い仕事に取り組むのは本当に楽しかったです。
経理部門など、会社の全ての部門を経験しながら少しずつ役職も上がっていく中で、入社して13年が経った38歳の時に大きな変化が訪れます。
2016年11月、社長である父が急逝しました。