承継時に50億円の負債、売上は160億円から20億円へ急減、社員数も130名から80名に減った会社が、グループ年商200億円弱、社員数450名の高収益体質に。その壮絶なドラマの序章。
静岡の蒲原というところで生まれました。富士山の麓にある富士町の隣町になります。そこが家業である磯部塗装の創業の土地なのです。磯部塗装は先代社長である叔父が関東方面、専務である父が関西方面を担当していた関係で、生まれてすぐに大阪へとやってきました。幼稚園までは江坂に住んでいて、小学校に上がるタイミングで西宮に引越し、甲子園学院という小学校に進学します。その学校は中学校から女子校なので、小学校に通っている人たちは基本的に塾に通って、中学受験をするのがお決まりのコースでしたね。
幼少期の記憶では、磯部塗装という会社を親族や父親がとても誇らしげに語っていたことを覚えています。誰からも言われたことはありませんが、小学校3〜4年生の頃に、将来磯部塗装を継ぐんだというようなことは言っていたそうです。もちろん、そう言えば周りの大人が喜ぶかなと思っていた部分もあるでしょうが、その後も言葉には出さないようになっても、家業のことは意識し続けていました。
私はあまり受験勉強が好きではなかったこともあり、一回で受験を終わらせるために関西学院中学部を目指していました。ところが受験の年に阪神淡路大震災が発生し、色々なものがぐちゃぐちゃになった様子を見て、受験前に精神的に不安定になってしまい、試験に集中出来ず、不合格となってしまいます。結果的に滑り止めで受けた関西大倉に首席で合格し、進学することになりますが、それだけ地震直後は不安定になっていたのだろうと思います。
中高生の頃はスラムダンクに影響を受けて、バスケ漬けの生活でしたね。高校2年生の夏に足首を捻挫してしまい、医者から安静にしていろと言われたのですが、無理して早めに復帰してしまい、同じところを連続して捻挫してしまいます。その結果、高校2年生の秋の時点で半年間はバスケをするなと言われてしまい、それは事実上の引退を意味しました。バスケ部を辞めて腐っていたところに、母親がマクドナルドのアルバイト募集のチラシを持ってきます。面接に行ったら採用されたので、高校2年生の冬から高校卒業までマクドナルドのアルバイトをしていたのですが、その頃の経験は、後にとても役に立ちました。今の自分の経営に対する考え方や、人材育成のベースを作ってくれたのは、マクドナルドでのアルバイト経験なのです。仕事をしたことがない、何も出来ない高校生、要は子供に対価を支払った上で、人材として育てていくOJTのシステムが確立されていました。分かりやすく教えてくれ、少しずつ時給も上がっていくため、モチベーションも上がります。特にモチベーションの上げ方は素晴らしかったですね。お金だけじゃなくて、成長意欲を引き出せるようなやり方や仕組みだらけと言っても過言ではありません。単純な労使関係ではなく、成長させると同時に店舗への帰属意識を持たせる仕掛けなどの体験を通じて、経営やマネジメントに対して本格的に興味を持つようになりました。
関西大倉は中高一貫校なのですが、高校に上がるタイミングで立命館大学に推薦で入ることがほぼ決まるコースに編入できるチャンスがあり、勉強してそのコースに編入することが出来たので、そのまま立命館大学経営学部に進学します。
大学入学後は、私大文系らしく遊び倒す生活を送りました。出会いがあったのは、大学側がスムーズに大学生活をスタート出来るように用意したゼミのような小集団のクラスでのことです。そのクラスで出来た友達が、ビジネスプレゼンテーションを行って入学してきていました。所謂AO入試というやつです。その友達の影響で、経営学部の中でも会計や財務という分野よりは、ベンチャーや経営戦略、アントレプレナーシップといった方面に興味を抱くようになりました。その友達がVBC(Venture Business Community)という、起業を志す人間が集まるサークルに出入りをしており、自分も家業のことを話したりしていたので、大学1回生の夏頃に様子を見に行きました。その時に面白い先輩たちに出会ってしまい、そこに入り浸る生活が始まります。
自分たちの1年上の先輩の代は人が少なかったこともあり、3回生の先輩たちが就活をし始めるタイミングで1回生の自分が代表に就くことになります。イベントの運営やインターンシップのマッチングなど、忙しく活動していましたが、VBCの代表と言いながら自分に語れるようなビジネス経験が無かったので、色々と大変な思いもしました。そんな背景もあり、大学2回生の時に有限会社を立ち上げます。VBCでの活動を通じて経営者との繋がりは出来ていたので、今で言えばバイト的な仕事を発注してもらっていました。手掛けていたのは、法人のPC向けサイトは開設していても、当時のガラケーに対応したモバイルサイトを開設している会社がほとんど無かったので、それを10万円で受注して、学生に1万円で作ってもらう、というような事業です。そのほかにもWEB通販の立ち上げや、楽天市場への出品のお手伝いなど、3〜4回生の時はそれらに専念する生活でしたね。もちろん大学にも行って単位は得ていましたが、当時は人を雇っていなかったので、何とでもなる、気楽な日々でした。
卒業のタイミングで色々と考えたのですが、立命館大学は休学制度が非常に使いやすく、費用も安価で最大2年間は休学することが出来るようになっていました。学生起業家という肩書きを使い続けたかった私は、休学してより多くの実績をその間に作ろうと決意します。大学のキャンパスの近所である滋賀県に住んでいましたが、そこを引き払って大阪市内に事務所を構えました。そこからが地獄の始まりです。それなりの家賃が発生し、後輩をアルバイトで雇ったので、固定費が大幅に増えたためですね。とは言っても、費用をかけてリスクを取らないとそれまでのレベルからジャンプアップできないのではないかという思いは持っていました。人を雇うことで自分を追い込み、より多くの成果を出せるようになるのではないかと。
2年間の休学後を終えた卒業後も、必死に仕事をしていましたが、年商ベースで5,000〜6,000万円ぐらいにしか到達せず、目指していた1億円の大台には届きません。自身の年収も、20代半ばでサラリーマンをやっていることに比べれば良いというレベルで、この先爆発的に伸びることが無ければ将来的には厳しいなと感じていました。何か新しいことをしなければとチャレンジもしますが、その分経費がかかったり、運転資金が増えた分、借入も増えたりと、未来の方向性について悩み始めます。
ただ、その時に色々な人とのネットワークが構築できたことで、何かあったら相談出来る相手が沢山出来たことは、後の人生にも本当に役に立ちました。普通に就職していたら出来なかったような繋がりが多かったので、いつでも呼ばれたらフットワーク軽く出向いて、お酒に付き合っていたことが、先々に功を奏することになります。
2008年12月、家業である磯部塗装の100周年記念パーティーに招待されました。後で振り返ると実態は全く異なっていたのですが、当時の家業は非常に調子が良く、先代社長である叔父も強気でしたね。私は専務の息子なので顔だけ出せと言われて出席しましたが、新高輪プリンスホテル 飛天の間で約1,500人を招待しての非常に盛大なものでした。政治家や財界人が出席する中、社員さんからも「たけちゃん、久し振り。いつ帰ってくるの?」と尋ねられ、自身で起業したけど先行きに悩んでいた私は少し肩身の狭い思いをします。新しいビジネスを起こすと息巻いてやってきましたが、古めかしい印象を持っていた塗装業という家業は、老舗で100年継続されたビジネスで、周年パーティーをこんなにも盛大に開催している姿に、改めて尊敬の念を抱きましたね。
年が明けた2009年、仕事で東京に出向いたついでに先代社長である叔父と食事をする予定であったのですが、叔父と会えませんでした。後に分かったことですが、何と手形が不渡りになることが確定したのがその日であったようです。
当時は売上が約160億円、その内の本業の塗装工事の売上が約60億円で、副業ともいうべき塗料の販売の売上が約100億円ありました。その塗料の販売事業の方で50億円近くの未回収、つまりは焦げ付きが発生していました。売ったけど、代金を回収出来ないということです。その結果、その取引のために発生した仕入れへの支払いで降り出した手形を決済する資金が不足することに。当日は毎月約8億円の手形を振り出しており、支払手形の合計金額が50億円に積み上がっていました。焦げ付き発覚後、最初の1ヶ月は手持ちの資産を換金したり、銀行からの借入で凌ぎましたが、あまりに支払手形の残高が多いため、どうにもならなくなったのが、私が叔父と会う予定だった日だったということです。
この件が明るみに出て、専務である父は叔父に尋ねますが、叔父自身が全容を把握出来ていなかったせいか、問題の全体像が全く掴めませんでした。父も関西を担当していて動けないため、私が東京へ行って状況を把握することに。幸い私の仕事は前述の通りIT関連で場所を選ばずに仕事が出来るので、2名居た社員に大阪は任せて東京へ行きました。結局、そのまま大阪へ戻ることなく東京に居続けることになるのですが。
東京に行ってすぐに磯部塗装の経営会議に参加したところ、社長である叔父、その他の役員、弁護士、弁護士が依頼した企業再生コンサルタントの方々が出席されていて、コンサルの方々が会社の資料へ片っ端から目を通して分析をしている状況でした。叔父はパソコンが使えなかったので、私が間に入って資料の整理やメールのやり取りを代行する役割を担います。当然ですが、資料に目を通す中で会社の中身がよく分かるようになってきました。2ヶ月前の盛大なパーティーは何だったのか、と思わざるを得ない、酷い状況でしたね。
コンサルタントが提案してきた再生案は、会社を良い部分と悪い部分、所謂グッド・バッドに切り分けてグッド部分は子会社に事業譲渡を行ない、バッド部分は磯部塗装本体の私的整理で処理する、第二会社方式と呼ばれる案でした。
このスキーム自体にも大きな問題があったのですが、それは後ほどお話させていただくとして、最も大きな問題は、事業譲渡をした後の子会社、つまりは磯部塗装の新会社の社長は、旧磯部の役員では絶対に駄目だということです。それでは債権者が納得しない、ということですね。
その時の会議は叔父、父、その他の役員、会計士、弁護士、件のコンサルの方々が20人強並んでおられる中、私は末席で議事録をとっていました。社長の成り手の話になった際、選択肢としては社内の若手から登用するか、外部から招聘するかの二択しか無いが、社内には適任者が居ない。外部からの招聘も、状況的にどう考えても泥舟の舵取りを引き受けてくれる方を見つけるのは非常に難しいということで、結論が出せずにいたのです。
私は、末席からおずおずと手を挙げ、「僕で良かったら・・・やりますよ」と発言しました。
2024年9月20日(金) 更新予定の後編へ続く