2017年6月26日
京都商工会議所ビル6階の京都府中小企業再生支援協議会の会議室にて、
13時00分からバンクミーティングはスタートした。
メインバンクの地銀、信金、メガバンク、政府系、そして保証協会までの幅広いラインナップが集まった前で、
1.祖業である着物製造卸業を他社に事業売却すること。
2.対価の考え方としてはクロージング時の売掛金-買掛金の差額と、売却対象となる在庫を一律に〇掛けという形でディスカウントした金額の合計とし、労働債務関係は交渉次第とすること。
3.すでに先行して交渉を始めている先もあるが、本日より作成したロングリスト(買い手候補先)に当たって行き、2017年7月末までには売却先を確定させること。
4.売却先が確定出来なかった場合は2017年9月末までに事業をスクラップし、対象となる従業員は全員解雇すること。
5.売却先が確定出来た場合は、2017年8月~9月でデューデリジェンス(対象企業、この場合は当社への調査)を終えて、9月末までにクロージングすること。
6.売却後は、宅配着物レンタル事業、実店舗型の着物レンタル事業を中心に、リサイクル着物店のFC運営などを含めて、BtoC業態へ転換して事業を展開していくこと。
ということを淡々と報告した。
2015年5月27日に行なわれた第1回目のバンクミーティングでは、私と向かい合うようにずらりと金融機関が並んだ席の配置に、何としても回避しようとしてきた破綻時の債権者集会そのものだなと落ち込んだりもしていたが、支援協案件になってからのバンクミーティングも4回目となり、その場の空気にも、先ず謝罪から話し始めることにもすっかり慣れていた。
質疑応答は売却先候補や、売却の実現可能性についてが主で、売却そのものの是非を問う声が一切無かったということは、経済合理性で判断する方々の総意として、事業売却はやむなしということであったのだろう。
2014年4月の消費税8%増税により、着物小売市場は更なる縮小を始めていた。そんな中、アベノミクス効果で年末にかけて為替が大幅に円安に振れる。実に僅か2年で80円から120円への値動きとなり、着物の製造原価にも大きく影響を与えた。染めの着物の素材であるシルクの白生地は、その元となる絹糸をほとんど輸入に頼っている。そう、当時は円安になったことで輸出企業の業績が絶好調になったことと真逆のことが我々には起こり、白生地の原価がじりじりと、最安値からは1.5倍程度にまで上昇した。もちろん売価への転換も試みたが、長い流通を通ることや、振袖などの商品は末端の小売上代ありきでビジネス自体が作られていることもあり、メーカーとしてはシンプルに粗利益率がダウンして採算性が悪化。今振り返ってみても、このタイミングが営業利益段階で黒字化しにくくなった決定的なポイントだったように思う。
一方、鳴かず飛ばずの新規事業であった宅配着物レンタル事業の売上が2014年9月に急伸し始め、私自身が時間も気持ちも新規事業に傾注することで、製造卸業の売上も採算性も更に悪化するという状況に陥り始めていた。
そんな中、通常の約定弁済を続けていくと数か月以内に資金ショートする可能性が出てきたため、2015年5月、京都府中小企業再生支援協議会へメインバンクと共に支援申込みを行なうことに。
デューデリにかなり時間がかかることになるが、結論がリストラになることは明白であったため、何とかそれを回避しようと始めた実店舗型の着物レンタル事業が起死回生の一打となり、一気に会社全体をBtoBの着物製造卸からBtoCの着物レンタルを中心とした会社へ転換させていく流れとなった。
そこで止めておけば良かったのだが、出店を続けていたこともあり、ある観光地の邸宅を借りないかというオファーを受ける。とんでもなく素晴らしい物件であると同時に、明らかに身分不相応な家賃。だが、レンタル事業全体は高収益で推移していたことや、低単価で数をこなすビジネスモデルから高単価・高付加価値への転換は必須だろうと考え、隠密で進めるための小細工として別の会社に間に入ってもらって間接的に賃借をするというスキームを構築する。
一般的には支援協案件で報告無しに新規事業を行なうなど、とんでもないことなのだが、到底承諾が出るわけもないだろうと、強引に、いつもの発揮しなくても良い実行力を存分に発揮してしまった。
色々とあったが結果的には全く採算が取れず、なかなかの赤字を出し、全てを金融機関に報告することになる。
金融機関も製造卸業は縮小均衡させていきながら、着物レンタル事業で何とか最低限の返済原資を確保出来る形に移行していってくれたらというイメージを持ちつつあったが、ここで一気に温度感が上がり、利益が出ている事業は良いが、利益が出ていない事業は人を削減すべしという明確なプレッシャーをかけられるようになっていた。当時のカレンダーを見ると、毎週メインバンクの担当者と上長が一緒に来社し、その件についてせっつかれていたことを思い出す。
実はこれに並行して、事業並びに会社への出資者を探す動きを進めていたが、なかなか良い返事をもらえずにいた。今考えればそりゃそうだろうとしか言いようがないのだが、世の中にはたまに信じられない状況で奇跡のような出資を実現するケースもあるので、私はそれに賭けていた。あっちこっちを飛び回ってプレゼンや相談をしまくっていた中、第7話 はじまりで出てきたVCのW君(その時にはもう退職して起業していたが)が作ってくれたパワーポイントが、全てを変えるきっかけとなる。
1.着物製造卸業と7億5千万の借入金は、同一会社の中の事象だが、一体ではない。
2.着物製造卸業は構造的に赤字だが、業歴・ブランド含めて価値を感じる会社はあるのでは。
3.着物製造卸業を切り離すことで一定の資金を得て、赤字も削減することが出来る。
4.残る借入金は、利益が出ている着物レンタル事業で返済していく。
結果的に4以外を実現した今となっては至極真っ当なスキームにしか見えないが、当時は祖業である着物製造卸業も借入金も着物レンタル事業も混在となって運営していたため、それらを切り離すという発想自体が目から鱗であったし、説明を聞いた直後もすぐに理解出来たわけではなく、徐々にその考え方が身体の中に浸透していったというのが本当のところである。
すでに製造卸業を全面的に任せていたGさん(第5話 リストラ参照)と、財務経理を任せていたKさん(第5話 リストラ参照)の2名にそのプランを説明したのは2017年5月3日であった。「社員もその方が幸せかもしれない」という発言がGさんから出たことで、私は事業を売却することを決意。
何は無くともメインバンク、並びに金融機関の方々からの了承が無いと進められることではない。勝手に新規事業をやって、大失敗した後だからこそ、余計にである。
支援協のスキームの一環で入っていた公認会計士を含めて、実現可能性があるのかということはかなり懐疑的に見られたが、実質的な事業対価は0円で、在庫を安く売る代わりに社員の雇用を引き受けてくれという形なら、極論タダでなら引き受けるとこはある。勝負はその金額をどこまで引き上げられるかですという説明で、まぁどの道赤字だし、スクラップする前にやるだけやってみたらという空気感になっていった。
所謂ロングリスト、と言っても僅か11社を挙げ、その中で最もカルチャーフィットしそうな会社に初回打診をしたのが2017年6月9日。当初の感触は良く、2週間ほど交渉を重ねたが、事業を分割してなら引き受ける可能性があるとの回答。最終的には分割しなければならない可能性もあるが、出来れば事業一体で引き受けてもらえる方が、ブランド価値も毀損せず、対価も上がりやすいだろうという考えからその1社との交渉は塩漬けに。
その後、冒頭のバンクミーティングを終えて、当日の午後から一斉にアポ取りの電話をスタート。
・直近3期分の決算書
・事業部毎の収支実績
・仕入関係の明細
・売上関係の明細
・その他関係する資料
上記資料をパッケージ化。NDAを締結した先にはどんどん渡し、質問に答え、交渉を重ねる日々をスタートさせた。当たった先は同業から得意先に当たる業態、小売も含めて、自分の経験の中で
1.うちの事業を買うことにメリットがあり
2.手離れが良い会社
を念頭に置いてリストアップ。手離れが良いというのは、買った後に何だかんだと難癖をつけられることも無く、転籍後の社員をリストラしたり待遇を極端に引き下げる可能性が少ないという意味であるが、これの見極めは意外と難しいものであった。
当時は毎日着物生活をしていたため、着物姿であっちこっちの会社に出入りしていれば否が応でも目立つ。6月26日の実質的なキックオフ以降、7月の中旬にかけて「身売りするらしい」という噂が凄い勢いで業界内を流れたようだが、当事者である私は台風の目に居るような感覚で、ある種の静けさの中で日々が過ぎていた。
反応は様々。話にもならないところもあれば、検討の上でお断り、初回打診から前のめりで話を聞いてくるところ、色々であった。交渉を重ねる中で、事業一体で引き受けるのが2社、分割して引き受けるなら2社と、まずまずの結果となり、その中で最も安定しており、財務内容も優良である企業へ売却することが決まった。
一般的にM&Aは売却を決意してから半年~1年はかかると言われている中、実質的なキックオフからちょうど1ヶ月で基本合意、2日後には業界紙や地元紙対象ではあるが記者発表、クロージング自体も1か月後の8月31日と、ディールが小規模であるとはいえ、驚異的なスピード感で進んでいった。
2023年10月6日
M&A後の統合プロセス全体をPMI(Post merger Integration)と呼ぶ。売却先は上場会社ではないため、現在売却した事業がどうなっているかは、風の噂でしか入ってはこない。ただ、売却先の社長とはFacebookで繋がっており、定期的にその社長が投稿するブログでは、転籍していった社員の写真が頻繁に出てくる。借金だらけの会社で赤字事業と言われていた時の顔とは打って変わって、伸び伸びと楽しく仕事をしている様子が嫌というほど分かる。
実は、赤字赤字と言っても、その事業自体での粗利益からその事業に関わる人間だけの人件費と経費を引いた段階で赤字になっていたわけではない。7億を超える借入金の金利や、所謂本部経費と呼ばれるそれこそ私の役員報酬や経理・総務などのバックオフィスの人員の給与を売上に対する按分で引くと赤字になるという意味なので、元々グループ経営をしていてバックオフィス機能が確立されているところに事業単体で転籍すれば、構造的な赤字からは脱却出来るはずであり、売却先探しもそれを念頭に置いて進めていた。
コロナ禍でのゼロゼロ融資の返済が始まり、倒産が増えている。
撤退出来るのはお金があるところだけで、破綻を避けようとすると、後は売却するしか道が無い。もちろん、買い手が積極的になれるような環境ではない中では、交渉のテーブルに座ること自体の難易度が高いであろう。
それでも、残したいものがあるのであれば、諦めてはいけない。私の製造卸業の事業売却も、当事者の私の視点で書いているので淡々とスムーズに進んだように感じられるかもしれないが、金融機関を含めてその事実を知っていた周りのほとんどの人間は上手くいかないだろうと思っていた。
当事者である私はそうはいかない。あんな思い(第5話 リストラ)を再びするわけにはいかないのだ。何としてでも事業のスクラップを避けて、売却先を死んでも見つける。日々、胃が切られるような緊張感の中、外見は努めて冷静に振舞っていた。
営利企業同士の取引なのだから、お互いにとって経済合理性があるかどうかだけの判断で良いのだ。先入観や固定観念に囚われず、ドライ・冷たいといくら言われようと構わない。出来るだけ多くを残せる選択肢を取ることが、その後のあなたの人生にも大きく影響する。私が、それで救われたように。
インサイドストーリー「セルフM&Aのやり方」
再生支援協議会
↑が何なのかの説明が一切無かった。借入金の返済を続けていけなくなりそうになった会社の駆け込み寺。ここに入るとリスケなりDDSなり債権カットなりがやりやすくなる。
※リスケ:リスケジュールの略で、返済をちょっと待ってもらうこと。
DDSと債権カットの意味はググってください。
バンクミーティング
経営状況が悪化して金融機関にリスケなどを依頼した場合、取引金融機関全てに個別で説明をし、個別に合意を得ていくのは大変な労力がかかる。そのため、ご足労ですがみなさまにお集まりいただき、まとめて説明して、100%の納得はしないけど、メインバンクが納得して支援しているならしゃーないなという空気を下位行に感じていただく場。
こういうこと書くから怒られる。
※下位行:その企業との取引額が相対的に少ない銀行
売却価格の考え方
まさしくケースバイケースだが、所謂のれん代、つまり事業価値の対価を得ようとすると、いくつかの確立された算定方法が存在する。この場合は株式譲渡ではないので、資産ベースの考え方は無しとして、同業種の上場企業の事業価値から算定する方法と、実際にその事業から得られる利益から算定する方法の二つのどちらかとなるであろう。同業種で上場している企業が無い場合は必然的に後者となる。
私の場合は事業価値はゼロとし、確実に入ってくる売掛金と確実に払わなければならない買掛金の差額、それに在庫のディスカウント金額を加えた合計とし、デューデリジェンスが在庫の実地確認のみで終われたので、非常にスピーディーに進むことが出来た。
※クロージング:M&Aにおける定義としては契約書に基づいて、株式、又は事業の引き渡しと売却代金の支払い手続きを完了させ、実質的な経営権の移転を実行することである。
売却のスピード感
上記で書いたように本来は半年~1年はかかることを、実質のキックオフから約1ヶ月で基本合意、2か月後にクロージングというのは驚異的なスピード感であるが、イレギュラー要素も強かったため、一般的なディールとして捉えるのは難しい。ただ、入札する場合もデューデリジェンスを行なう場合も、一定の期限を設けておかないとダラダラと進行するだけなので、入札とデューデリをそれぞれ1ヶ月半ずつの3か月でクロージングさせるぐらいのスピード感で進めた方が、結果的にはベターだと私は感じた。スピード感を決める一番大きな要素として、売却候補先が上場会社か未上場会社で意思決定のスピードが違うことが挙げられるが、どちらかと言うと経営者の気質やスタイルに寄るところの方が大きいだろう。速いところは驚くほど速いが、遅いところは全てのディールが終わってから問い合わせの連絡をしてきたりする。
バンクミーティングの空気
リスケを要請した段階で各行の温度感はグッと上がるので、お前何してくれとんねん的な空気は強く、それまで建前でやり取りしていた方々があからさまに本音を前面に出してくる。凄い銀行はうちは融資残高が少ないので、うちだけ先に返してもらうことは出来ないかとか、平然と言ってくる。
致命傷となった円安
着物の原価構造をオープンに書くと結構やばそうなので、何となくの数字として捉えていただきたい。
白生地の原価10,000円+染める原価23,000円+デザイン代の1枚辺り原価5,000円=原価合計38,000円を50,000円で卸すと24%の粗利益率となる。
これが白生地の原価が5,000円UPしたので、交渉して何とか売価を3,000円上げてもらった場合、
白生地の原価15,000円+染める原価23,000円+デザイン代の1枚辺り原価5,000円=原価合計43,000円を53,000円で卸すと約19%と5ポイント近くダウンする。営業利益率が5%を超えられない業態でこれは致命傷となった。
リソースの配分
伸びている市場で売上が伸びて、利益率も高く資本投下効率も良い事業を経験すると、縮小を続ける市場で売上が落ち、利益率は低く資本投下効率も悪い事業を続ける意味が全く見出せなくなる。
アクセルを踏むな、将来的には撤退する!と経営者が明言し始めた事業で頑張り続けられる社員は居ない。そういうことだ。
中小企業再生支援協議会への支援申し込み
当時約7億5千万円の借入に対して、年間5千万円以上は返済をし、3~4千万円は折り返し融資をしてもらうパターンを繰り返していた。実質的に1~2千万円程度しか返済していないわけだが、金利の支払いが年間1千5百万円程度あったので、合計すると財務CFとして2千5百万~3千5百万の支出となってしまう。もし、業績が悪化して折り返し融資が難しくなったり、早期返済を求められだしてこの流れが狂ってくると、実質銀行管理下になるということもあって支援申し込みには抵抗してたが、ここで力尽きたのが実態であった。ちなみに目的としては金融調整がメインなので、メインバンクと協調して動かないと絵に描いた餅になってしまう。そして支援申し込みを知らなかった他行はへそを曲げ、面と向かって反対はしないが物言いが増える。
結論はリストラありき
業態にもよるが、私が営んでいた着物製造卸業は業態把握と事業の採算分析が非常に難しかったようで、半年以上かけて再生計画を策定することになった。この時間の猶予が私にとって大きなチャンスとなり、第11話 ゴールドラッシュへ。
成功している時に失敗の種が芽吹く
>とんでもなく素晴らしい物件であると同時に、明らかに身分不相応な家賃。
第11話 ゴールドラッシュでも記述したが、最初に始める時はガチガチに固いプランを組んで、石橋を叩きまくって恐る恐る渡るレベルの慎重さであったのが、事業が拡大し始めていけいけどんどんになると、脇が甘くなって雑な商売になる。失敗は成功のもとだが、成功の最中に次の失敗の種が芽吹いているのだ。
粉飾一歩手前
>隠密で進めるための小細工として別の会社に間に入ってもらって間接的に賃借をするというスキームを構築する。物件の賃貸借契約を結んで賃料が発生しているのを誤魔化すと完全に粉飾だが、別の会社に借りてもらい、そこに支払手数料の形で処理してP/Lの中に溶かすのが狙いであった。ちなみに期中の処理は未払費用で処理していたので、実際はグレーではなく真っ黒である。くれぐれも真似をしないように。
新規事業の是非
>一般的には支援協案件で報告無しに新規事業を行なうなど、とんでもないことなのだが、一旦再生計画を策定すると、もちろん新しいことは出来ないが、撤退することも難易度が高くなる。そこに支援協で再生スキームを組む怖さがあるが、関わっている人間は誰もその事実に気付いていなかったりする。
問題を解決するとは、事象を分解すること
コンサルをしていた時に「借入のことについて銀行があれこれ言うてきてるけど、株はまだ散らばったままだし、事業の先行きも見通せないけど、社員は高齢化して新しい手は打てないし」みたいな相談がよくあった。言うまでも無く、
・借入金のこと
・株式をオーナーに集約すること
・事業の将来性を検討すること
・若手、中堅社員を採用すること
・新しい手を打つこと
これらは全て別々のことで、すぐに対処できることもあれば、自分たちではコントロール出来ないこともある。一つ一つ分解して、個別にアプローチしていくしかないのだが、当事者は全てが一体となった悩みとして抱えてしまうことが多い。当時の私がそうであったように。
事業の価値は買い手側が決める
利益が出ていない、もしくは赤字の事業を買う人が存在するのかという質問へは、その事業の価値を決めるのは売手ではなく、あくまで買手側が判断することだと答える。その事業をどう活かすのかは買手側の問題であり、アプローチする前から諦めていては何も始まらない。
従業員の気持ち
元々求心力があったわけではないが、既存の製造卸業にそっぽを向いて新しい事業に傾注する私から離れていく社員は多かった。意識を変えろ、やり方を変えろ、嫌なら辞めろといくら騒いでも微動だにしなかった人たちが、その人たちが好まざる方向に大きく舵を切って前進し始めると、相次いで退職していった。
雇用を確保するために始めた事業のせいで人が辞めていく。意図せず「北風と太陽」が実現してしまっていたという皮肉な話である。この時に残っていた社員はそのゴタゴタの後に残っていた人たちなので、能力は別としてロイヤリティ・忠誠心は高いというか、良くも悪くもリスクを取っては動かない、平均年齢も50代半ばに差し掛かっていた、純粋な人たちであった。
自分の人生は自己責任と心では思いつつ、祖父の代から仕えてきた人たちの人生をどうにか有終の美が飾れるようにという思いはいつしか、生き残るために変化に対応することを求めるのではなく、変化に対応しなくても生き残れる道を用意するという方向に。
それがこの事業売却の本質である。
公認会計士は経営者の味方になり得ない
根本的には安定した資格で生きていく選択をした人たちと、あらゆるリスクを背負う生き方を選んだ経営者が分かりあえるはずがない。金融機関は「先生」の名前が無いと相手にしてくれないので、士業の力を借りる場面は多かったが、「先生」は貴方の味方にはなり得ないことを忘れてはいけない。所詮他人事なのだ。
のれんの価値
事業単体で採算性を評価されると、買手側にとってはお買い得価格になるが、売手側としては完全に買い叩かれた形になる。売却時の条件提示として当時の社名、つまり屋号を存続させることをマストにはしていなかったが、それを残そうと思ってくれるところが一番事業価値を見出してくれるであろうことは明白であった。
私にとっても残る事業にとっても屋号の存続は重要なことで、私の場合は直接の利害などは一切無くとも、所謂OB・OGが数百人単位で存在する会社の名前がこの世から消滅すると、誰から何を言われるか分かったものではない。看板を背負ってきた当事者としてはそのストレスが無いことは非常に大きかった。
最終的には新会社を作り、社名はそのままで、後株が前株になるという形を取ったが、本来は別法人扱いになるので外部業者との取引契約などは結び直す必要がある。ただ、京都の和装産業というのはビジネス的にはゆるゆるの世界なので、後株が前株になるだけで、社名が変わらないのなら今まで通りでやりましょかという話になるだろうという読みをしていたが、結果はその通りに。
事業売却に必要な資料
株式売却ではなく事業売却なので資料が少ない。追加資料を要望されることがあった場合は、資料一式のパッケージに追加して、アップグレードさせていった。そうすることで、新しく当たる先への精度が上がっていくのだ。
大切なポイントとして、入社以来あらゆる会計処理からファジーな要素を排除して厳格な運用にしていたことが、この状況では非常に活きた。元々はファジーな要素を残しておくと自分自身が本来の収益性を見誤ることからやったことではあるが、決算時に利益の調整枠を残している中小企業って、実は驚くほど多い。
手離れの良さ
売り手側としてはとても重要なファクターだ。M&Aは弱い者が強い者に買われるというイメージが強く、私の場合も身売りという表現を使われていたが、実際は逆だ。所謂「情報の非対称性」がこれほど大きいディールは無く、買ってから大変なことになっているケースは山ほどある。いくら分厚い契約書を締結したところで、売り逃げされたらどうしようもないのだ。その分、買った側も1年は運営体制を大きく変えないケースは多いが、その後に見るも無残に解体されていくこともある。
M&Aも人気が大事
ロングリストは可能性が高そうなところからリストアップしているため、リストの最初の方で決まったかと言うと実はそうではない。恐らく私が提案をしに行った際の雰囲気・表情・態度が全てなのだが、買うと言ってくる会社が1社でも出てくると、自然と余裕が出る。その様子を見て、買手はこれは魅力的な案件なのだと思うようになる。そう、それが飲食店であれ男女の恋愛であれ、人気が無いものは見向きをされないが、人気があると分かると人が集まってくる。原理原則はどれも同じだ。
究極のハンズオン
事業売却の発表後、円滑な運営継承のために新社長となるGさんと得意先に挨拶回りをした中で、ある社長に「室木さん、寂しいでしょう?」と言われて、一瞬ポカンとなってしまった瞬間があった。「寂しい?」
流石にせいせいしたと言うつもりは無いし、クロージング時に行ったパーティーの席上で号泣するぐらいには熱量と思い入れを持って経営に携わっていたつもりだ。ただ、私はあくまでも会社経営というリレーのバトンを受け取った一人のランナーであり、それをいつかは次の人間に、でも絶対に自分の息子や娘、もしくはその伴侶となる人たち以外に渡せるようにしたい、そう強く思っていた。
そういう意味では、世襲企業、今風に言えばファミリービジネスを継続させるという目的意識は一切無く、その企業の事業や社員、関わる取引先を含めた経済圏をどう守っていくのか、また残せるのかということが一番の懸案であった。言わば極めて外部のコンサルティング的な視点を持ちながら、借入金への個人保証をして経営をするという究極のハンズオン型であったと、途中にはありとあらゆるやらかしもあったが、終わりよければ全て良しということでご容赦いただきたい。