第14話 特別清算 | 後継者

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2018年7月24日

久々に出社。事業の売却先が確定した後は、何がしかの用事がある時にしか出社しないことにしていた。

挨拶は交わすが、事業を売った人間は、社員にとってもう社長ではない。

4月16日の15時30分に全社員を集めて売却先が確定した旨を報告した際、私としては「決まった!」という達成感とある種の高揚感に包まれながら話をしたが、その瞬間、何とも言えない冷めた空気が流れ、自分がその会社の社長では無くなったことを悟った。

10時から顧問会計士事務所との特別清算に向けた打合せを行った後は、7月上旬から始めていた、お世話になった関係先・取引先への御礼の挨拶訪問を2件終わらせてから帰宅。3日後には大阪への引越しが控えているため、家族全員その準備に気忙しい。

あと1週間で、主たる事業であり、自身で立ち上げた宅配着物レンタル事業売却のクロージングを迎え、私は社長では無くなる。

正確に言えば、売却後の法人はしばらく残り、解散を経て特別清算手続きに入る。そのため、しばらくは社長、後に清算人に就任し、手続きを進めることにはなるが、1週間後には全従業員が事業の売却先へ転籍、希望しない人間は退社することになっている。一棟を借り上げていた社屋は売却先がそのまま賃貸することになり、私と退社する人間だけが出ていく形になったため、社長を降りるという表現が相応しいであろう。

第13話 事業売却の後、晴れ晴れした私の気持ちとは裏腹に、少しずつ歯車は狂い始めていた。

2017年9月1日付で事業売却手続きがクロージング。法人名を屋号として譲渡したため、残る残存法人は株式会社サニーデイサービスへと社名変更。着物レンタル事業全般を運営していた100%子会社の株式会社キモノラボは翌2018年1月1日付でサニーデイサービスへ吸収合併することとし、決算月もそれまでの6月末から12月末へと変更するなど、やりたかった整理や変更を立て続けに行った。

入社して11年5ヶ月、4170日もの時間をかけて、ようやく私の手元から、そして我が一族から、祖業である着物製造卸業が解き放たれた。財務的に安定した会社に買われたことで、同業種の中では事業が継続される可能性が高くなったこと、私自身がその事業と関連した取引先に関わる必要が無くなったこと、この二点が私の心をどれだけ軽くしてくれたことか。
ここから勢い良く再スタートを切る、はずだった。

第13話 事業売却にもあるように、2017年3月頃からは出資者探し、その後は事業売却に私自身がかかりっきりになってしまっていた。着物レンタル事業は宅配・実店舗型共に自分自身がプレイヤーとして立ち上げを行なっていたことや、次の責任者を育てられていなかったこともあり、私自身が成長戦略を常に実行していないと成長が鈍化してしまう。

宅配着物レンタルの方は利益ベースでは好調だが、新商品を常に投入していかないと成長が鈍化する。パイが伸びている市場の中で成長が鈍化するということは、イコール衰退するのと同義になってしまうのだ。

2017年3月にはそれまでの月間最高売上を記録するも、物流がパンクして長時間残業が常態化した結果、直後に複数名の社員が相次いで退社する事態が起こっていた。
当然、補充採用も行ったが、前年の2016年6月末に商品管理・物流部門で1名、WEB・受注対応部門で1名、共に立ち上げ時からの主力メンバーが退社していたこともあり、そもそも体制として手薄になっていた。そして2017年の8月、立ち上げ時からの主力の主力であった計数管理・WEB・受注対応までを手掛けていた2名が同時期に産休に入った。皮肉な話だが、結果的にはこれにより業績が悪くなったことで奇跡の特別清算が実現したとも言えるのだが、この時の状況としては致命傷となった。

というように、勢い良く再スタートを切った段階では立ち上げ時からのメンバーは自分だけ。加えて違う業務にかかりっきりで、久々に実戦に戻ってきたら、これから関係性を築いていかなければならないメンバーばかり。立ち上げメンバーとのやり取りのような阿吽の呼吸が一切通用せず、コミュニケーションにかなりの時間と手間を取られるようになっていた。

その状況下では、一度パンクした物流を立て直すことが最優先となってしまい、新商品の大量投入など実現出来るはずも無く、昨年実績をキープはおろか、じりじりと下回る月も出てくる始末であった。

それでも宅配着物レンタルは事業部単体で営業利益を計上していたし、会社の中で稼ぎ頭であったことには間違い無い。

問題は実店舗型着物レンタルで、2017年には基幹店舗を思い切って1フロアから2フロアへ増床したは良いが、競合他社が雨後の筍のように出店をしてきて、京都の観光着物レンタルマーケットは一気にレッドオーシャン化。

また、宅配着物レンタルにおいては競争優位性があったPPC(Pay Per Click)と呼ばれる検索連動型広告の効率的な自社運用と、それに連動したSEO(Search Engine Optimization)の強さが、実店舗型着物レンタルでは全く活かせていなかった。

PPCは競合が一気に増えたことで単価が高騰し、広告運用のみでの集客では採算が合わなくなる。一方SEOは実店舗型着物レンタル事業を立ち上げた当初から最重要KSF(Key Success Factor)として位置付けていたため、当初使っていたありものの予約システムから乗り換えるべく、フルスクラッチで開発した予約システムとSEOにも強いサイトを構築しようとしていたが、これが難航。リリース予定から半年を過ぎてローンチしたは良いが、人員不足もありSEOコンテンツの投入が進まず、また投入しても競合他社がより強力にSEO施策を打っていたこともあり、検索結果上位に上がってこないという状況に。

そんな中、2015年頃から始まった京都での着物レンタルバブルも2018年春頃を頂点にピークアウトし始めていた。日本人の若い女の子たちが着物や浴衣を着てInstagramにUPしまくった現象は、良くも悪くもファッションのムーブメントであったため、2019年夏のタピオカのような盛り上がりを見せた後、まるでそんなものは無かったかのようにブームは去っていった。

京都の着物レンタルマーケットはインバウンド集客が効率的に出来ている店が底堅い強さを見せることになり、その中でも海外におけるSEOが強かった会社は勢いに乗ってマザーズへ上場を果たした。

驚くほどの勢いで拡大したマーケットであるが故の急激な変化の中、2018年の夏を境にそれまで昨対を割ったことなど無かった実店舗型の着物レンタル事業は少しずつ売上を落としていく。レンタル衣裳の償却は終わっているので粗利益率は100%に近いが、その分着付師や美容師などの人件費率が高い。集客が出来ていなければ一気にコスト高となってしまい、スタッフを大切に、働きやすく、シフトも出来るだけ希望に沿って入れていくという経営手法が完全に裏目に出始めていた。

その他にもリサイクル着物店のFC運営などを手掛けていたが、大きく収益に貢献するものではなく、あれこれと手を広げすぎた結果、どの事業も中途半端で、課題が山積みの状態になりつつあった。

年が明けた2018年の1月には、2月~3月には資金繰りがショートすると財務経理を任せていたお馴染みKさんが資料を片手に言ってきた。支払いジャンプのお願いなど、自分が動いて何とか出来る手は打つと答えつつ、それが時間稼ぎにしかならず、早晩行き詰まることは目に見えていた。

一方、同時期に起きたのが横浜のはれのひ事件。ここにもあるように、S氏とは面識もあり、取引もしていたため、全くもって他人事では無かった。もし、自社が破綻して着物レンタル事業が事業停止となった場合、第二のはれのひ事件と呼ばれることは必至である。

関係者がニュース番組に提供した、S氏がカラオケバーで歌っている動画を見て、自分もこうなったら再起が一切不可能になること。もちろん、働いている従業員もキャリアに傷が付くこと。そして何より、業態が違うため客単価がはれのひより安いとは言え、一生に一度のお祝いを楽しみにしているお客様にも多大なご迷惑をおかけすることになってしまう。

スポンサーを見つけるべく、半ばヤケクソで過去に和装関係の企業を買収しようとしたファンドなど、考えられるところには全てアプローチした。
当然、借入金も含めて引き受けるところは無い。万事休すであった。

会社の破綻に伴って自己破産する前に、自己所有のクレジットカードの限度額一杯まで、換金出来るものを購入していざという時の資金にしようと、限度額を調べたりしていた。自己破産前にそのようなことをすると免責が下りないことなど知識では知っているはずだったが、そんなことも分からなくなるぐらい、私は追い詰められていた。

そして2018年3月8日の9時にメインバンクを訪問。実は2017年8月25日に振り出した製造卸業での手形の決済が、3月5日にようやく終わった。足を向けて寝れない取引先が多く、そこにだけは迷惑を掛けたくないと、その日までは行動を起こさないようにしていたが、それもようやく終わったため、担当者・担当課長・担当部長が揃った場で下記ペーパーを出し、意向を伝えた。

(マスキングしている固有名詞は宅配着物レンタル事業のことである)

2006年4月の入社以降、ありとあらゆる資料やプレゼンを行なってきたが、この僅か268文字のペーパーより価値のある資料は無かったのではないかと思えるほど、今見てもクリティカルな内容である。

このペーパーを出した数日後にメインバンクの審査部の担当者から、通称REVIC、地域経済活性化支援機構の再チャレンジ支援という特殊なスキームを用いて、私的整理を行おうという提案をされた。

このスキームを実現するにはいくつかの障壁があるが、最大のポイントは「金融機関からの借入金以外の債務(一般債務・租税債務・労働債務等)は全て支払いが完了出来ること」であり、これを私が提案した宅配着物レンタル事業を出来るだけ高値で売却することで実現しようという話である。

実はREVICのこのスキームの存在は、別の政府系金融機関の担当者の上長からレクチャーを受けたことがあった。ただ、そもそもこのスキームは事業者側が主体で進めるものではなく、メインバンクが主導して申し込まなければならないこと。金融機関としては債権放棄を伴うものなので、このスキームを嫌がるところも多いということなどが障壁となると教えられた。当社のメインバンクである某地銀は過去の実績も含めてどうでしょうと尋ねたところ、「その地銀さんはいつもこのスキームを嫌がるので、可能性は低いでしょうね」と言われていたので、頭の中から消していた話だ。

提案をしてきたメインバンクの審査部の担当者というのが、私とは犬猿の仲で、人生のいついかなる時に出会っても絶対に仲良くならないとお互いが思っており、色々と私がやらかしたことへの追及もかなり厳しくやってきていた。

ところが、その審査部の担当者が、REVICの前身である企業再生支援機構に出向していたというとんでもないミラクルがあり、その地銀としては実に2例目となる再チャレンジ支援のスキーム適用となったというわけだ。この時ばかりは流石に自分の悪運の強さに感謝した。

メインバンクは提案をしてきた時点で実質OK。REVICも初動調査で怒涛のような資料出せ攻撃を経てOK。あまり私との相性は良くなかったが、再生支援協議会案件になった関係でこのスキームにおいても担当になっていた公認会計士が各方面に顔が効く存在であったことも大きい。私との相性は良くなかったけど。

ここまで整った上で、次はバンクミーティングで了承を得るフェーズである。とは言っても、何しろREVICの株主は預金保険機構という、実質国=金融機関からすれば金融庁様なので、恐ろしいほど上から「このスキームで決めたから、お前らはスケジュールに従えや」みたいな発言で威圧しているのには驚いた。すげーって。

バンクミーティングは多少紛糾しつつも、事業を売却してそれを配当原資に充てるのであれば、1円も回収出来ないよりはマシという「経済合理性」に乗っ取った寛大なご判断をいただき、二回目のセルフM&Aを行なうことになる。私は、実に1年で2つの事業を売却することになった。

二回目ということもあり、手続き全般において慣れたものであったし、利益が出ている事業であったため、製造卸事業の時よりも驚くほどスムーズに全てが進んでいった。

2度の入札を経て、4月16日に売却先が確定。その後は個人財産の厳しい厳しい調査などを経て、7月4日に全ての取引金融機関から特別清算に対して内諾を得ることができ、3月上旬から続いた胃の痛む日々は終わりを告げた。

インサイドストーリー「会社のたたみ方」

特別清算への道のり
クロージング後が長かった。2018年10月30日に解散手続き、その後全ての弁済を終えた上で、2019年8月1日に特別清算開始決定、並行して解散決算や清算に伴う決算を経た上で2020年3月24日付で特別清算終結決定通知が出て、同年4月28日に閉鎖登記がなされた。そう、だからやっとこれを書けるようになったのだ。
スキームの大枠が確定してから実に2年。これは再生あるあるらしいが、スキームが決まって利害関係者全員がそれに同意するまでは最大熱量を持ってハイスピードで物事は進むが、同意が取れた段階で関係者全員が一気に徐行運転になるので、終結までは時間がかかってしまうことが多いようだ。私の場合も6ヶ月から10ヶ月は期間を短縮出来た気もするが、実際にやってみると、取引先への支払い関係や行政関係の手続き関係でしなければならない残務処理はそれなりに出てくる。社員に関しても、離職票の発行がされていなかったとか、返した保険証の番号を教えて欲しいという依頼など、何だかんだと対応しなければならないことも多く、一気に全てが終わる破産ではないが故の手間は結構なものだと感じた。

季節変動の難しさ
宅配着物レンタルは季節変動要素が強く、3月から4月にかけては気候が良いため、通年で需要があるお宮参りや留袖の出荷も増えるところに、卒業式・入学式の需要がドンと上乗せされるので、3月は単月で月平均の2.5倍の売上を記録していた。平常時に合わせた人員配置だと、間違いなく物流がパンクするが、3月に合わせた人員配置だと利益率が悪化する。短期での人材派遣なども試みたが、専門性が高い仕事であることや、仕事のマニュアル化が進んでいなかったため、上手く活用するまでには至らず。

立ち上げメンバーの退社
0→1、1→10、10→100、それぞれのフェーズで活躍出来る人材は違うと言われているが、この事業は0→1の立ち上げフェーズを終えて、1→10の仕組み化するフェーズに入っていた。0→1の暗中模索の中でも動ける人間は、1→10の仕組み化するフェーズでは全く活躍出来なくなってしまう。本人としては仕事の面白みは減るし、仕組み化という概念がいくら説明しても理解出来ないようであった。また、後から入ったメンバーからは立ち上げた人間として神格化されてしまい、仕事が聖域化されるため、余計に仕組み化が進まないというジレンマに陥る。最後は実質上辞めさせたような形になり、事業を伸ばすのは最高に面白いが、最初はプライベートでも仲が良かったメンバーを切るという、最高につまらないこともやらなければならないことを実感した出来事であった。

勝負の分かれ目
立上げ初期の段階ではPPC(Pay Per Click)をゴリゴリ強気に運用して数字を取ることが肝ではあるが、それだけだと儲かる商売にはなり得ない。PV(Page View)とCV(Conversion)を増やしてGoogleからの評価を上げた上で、関連するコンテンツを投入してSEOを上げることがこの手のビジネスの王道となる。但し、2017年頃からはGoogle検索自体の比率が下がり、Instagramで「#京都着物レンタル」と検索する子たちも増えてきていたので、SEOに強いか、SNS並びにTripadvisorなどの各種口コミサイトでレビューが高いかが勝負の分かれ目となった。

手を広げすぎ
当時、主力の着物レンタルが宅配事業と、実店舗が最大で3店舗、これに高価格帯のレンタル、FC運営でのリサイクル着物店、FC運営での合弁レンタルと、運営事業数は5事業、運営店舗数は6店舗にまでなっていた。明らかに運営とフォロー体制は追いついておらず、タイムリーな施策やデリバリーが出来ていない状況が常態化していた。

初めての支払いジャンプ
2月~3月は支払いジャンプのお願いに京都のみならず、遠方まで頭を下げに行っていた。会社設立以来、一度たりとも支払いを遅延させたことが無いと聞いていたが、まさかこのタイミングで自分がその禁じ手を打つことになるとは夢にも思っておらず。最終精算が事業売却のクロージングである7月末であったため、そこまで待っていただいたところも数社あり、租税公課関係も含めて支払いを待ってもらうお願いをしに行くことへの抵抗が驚くほど無くなった期間ではあった。

殺すなら殺せ
>。実は2017年8月25日に振り出した製造卸業での手形の決済が、3月5日にようやく終わった

3月5日の前にアクションを起こした場合、未決済の手形は落とすなという指示が出る可能性がゼロではなかったので、このような順番になった。端的に自分が銀行側の担当なら、殺意を抱くレベルでの開き直りだと心から思う。そして、開き直った奴が一番強いことも、この時には実感した。↓の絵のように。

268文字の攻撃
>2006年4月の入社以降、ありとあらゆる資料やプレゼンを行なってきたが、この僅か268文字のペーパーより価値のある資料は無かったのではないかと思えるほど、今見てもクリティカルな内容である。

銀行が考える「経済合理性」に寄り添った提案である。1の破産でレピュテーションリスクがあると記述したのは、もし第二のはれのひなんて報道されたらメインバンクの名前に傷が付きますよと、暗にメインバンクを脅しているのだ。我ながらとんでもない。

個人財産の調査
あまり書けないが、個人財産の調査がこのスキーム上で最もハードであった。結論から言うと2006年の入社以降12年間の個人の全銀行口座の入出金データ、並びに10万円以上の金の動きについては詳細に説明を行なうことに。金は受け継いでないのに、ややこしいことは沢山引き継いだので、その処理をするために荒っぽい金の動きをしていた履歴が、資産隠しではないかという疑惑を持たれてしまい、それを払拭するのが本当に大変であった。

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この記事を書いた人

サクセッション 編集長
1981年 京都生まれ。2006年 立命館大学卒業後、祖父が創業して父が経営していた着物メーカーに後継経営者として入社。父の急逝に伴い、2007年に代表取締役に就任。2017年に祖業を事業譲渡。その後、自身で立ち上げた事業も2018年に事業譲渡後、官民ファンドであるREVICの再チャレンジ支援によって法人は和解型の特別清算処理を行った。2018年に事業承継・レンタルビジネス・ECコンサルティングを手掛けるDEPLOY MANAGEMENT株式会社を設立し、現在までに多数のクライアントの課題解決を手掛けている。

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