第2回「創業者 中村喜代蔵」 | たんす屋創業者 中村健一の回顧録

創業者 中村喜代蔵

東京山喜株式会社は、私の父中村喜久蔵が昭和36年(1961年)12月18日に、日本橋芳町で創業しました。

現在では人形町に吸収され芳町の町名は消滅しましたが、東京の六花街の一つ、芳町芸者はかろうじて残っておられるそうです。その後ちょうど時計と反対回りで、日本橋蛎殻町、日本橋富沢町、日本橋堀留町と本社を移転し、昭和55年(1980年)1月に日本橋人形町3丁目に約80坪の土地を購入し新社屋を建てました。ここが最後まで弊社の本店登記の地になります。

令和4年(2022年)に東京山喜は消滅しましたので、約60年存続させて頂いたことになります。私は昭和54年(1979年)4月、東京山喜の本社が堀留町にある時に入社しましたので、ちょうど人形町の新社屋建設中でした。

着物業界は第一次オイルショックの昭和48年(1973年)に2兆円の市場規模に到達し、その後天井を打った感はありましたが、約10年前後はなんとか2兆円の市場規模を維持していた様に記憶しております。つまり私は着物業界がピークアウトしてしばらくのちに業界に入ったことになります。その後着物業界は、一時的な例外(コロナ明けなど)を除けば約50年、半世紀にわたり右肩下がりで失われた50年を継続しています。

私は呉服問屋の三代目と自称しておりましたが、それは父中村喜久蔵の父、つまり私の祖父喜代蔵が大正13年(1924年)2月に京都室町六角上ル東側で創業したことに由来します。喜代蔵は、滋賀県坂田郡六荘村大字室(現在の長浜市室町)の生まれで農家の次男坊でした。ちなみにお隣は柴田家で、人形町の本社とほぼ背中合わせの老舗呉服問屋、丸太柴田(現マルシバ)の本家でした。一般的に長男が家督を継ぐわけですので、喜代蔵は尋常小学校を出て満10歳で彦根の縮緬問屋、後藤彌平商店の京都支店に丁稚奉公にだされます。丁稚奉公のあまりの辛さから、父親の清次郎に「いにたい、いにたい」と手紙を書きます。それに対して清次郎から「ならぬ辛抱するが辛抱」と返事が返ってきて実家に逃げかえることを諦めます。辛抱の甲斐があって喜代蔵は満28歳で独立を許され、中村喜代蔵商店を創業します。

室町通り六角上ル東側、中村喜代蔵商店

創業の地は現在の誉田屋源兵衛さんの真向かいで、今は、瀟酒なマンションが建っています。かつて誉田屋源兵衞さんの古い番頭さんとお話しした折に、祖父喜代蔵のことをよく覚えておられました。ウライの創業者 裏井健二さんにはよく可愛がって頂きましたが、裏井健二さんも中村喜代蔵商店と祖父のことをご記憶されていた数少ない業界人で、祖父のことを褒めていただきとても嬉しかったことを覚えています。

この祖父喜代蔵の創業から数えて、私は呉服問屋の三代目になり、創業から数えて今年の2月で100年になります。ちなみにわが家には、創業時の暖簾と看板と入店の栞(会社案内)が残っています。この入店の栞には、創業者喜代蔵の思いが詰まっています。

中村喜代蔵商店の看板

最初に、
[「立身を望まるゝ少年諸君へ」 生涯の希望を載せて校門より実社会へ愈々目ざす立身の大海原に船出の機は到りました。世事百般選ぶ航路も亦千差万別なれど、赤手空拳を奮つて呉服卸問屋に志ざすも前途洋々として面白き極みと存じます。京都服飾界は今や単なる地方呉服業ではなく、全日本的飛躍産業たるは已に諸賢の御周知の事実にて、其の飽くなき進展を見る處昭和文化の中心をなしております。将来呉服業を以つて身をたて服飾界に飛雄発展せんと志して実業界に一歩を踏出し、其の目的に邁進せんと望まるゝ少年諸君に當店は進んで門戸を解放して喜んで入店希望者を迎え、店員生活の意義を全からしめ商業無門の大道に精進されん事を望んで止みません。]
とはじまります。すごいですね。バックに軍艦マーチが聴こえてくるようです。

次に、
[ 「営業種目と販路」縮緬・羽二重・紋織物・高級変織・縫取・紬・裏絹・麻織・人絹等各産地白生地類を主眼として、京呉服・西陣織物も取扱ひ、京染誂部を設けて各都市は申すに及ばず、関東・奥羽・中部・四国・九州は無論、遠く北海道・樺太・朝鮮・臺灣・滿洲・支那に至る迄我が取引は密接に行はれて、益々其の地域の開拓伸展が計られて必ずや入店後諸君の理想に手腕に思ふ存分の活躍が成し得られる事を確信しています。]
と続きます。

面白いことに、九州は無論、遠くのあとに、北海道がくるあたりは当時の感覚が伺えるところですが、まずは戦後に北海道がソ連に占領されずによかったです。まさに血湧き肉躍るが如き会社案内で、多くの少年の心をとらえたに違いありません。前途洋々の中村喜代蔵商店も昭和16年(1941年)の太平洋戦争の勃発で国民総動員法により贅沢品である呉服の流通が統制になり、創業からわずか18年で休業に追い込まれます。この統制は戦後昭和24年(1949年)に解除されますが、創業者喜代蔵はまさにその年に満53歳で病没しております。事業の再開を果たせず本当に無念であったと思います。

昭和29年(1954年)生まれの私は、祖父喜代蔵とは面識はありませんが、父親から非常に優れた近江商人であったことを折りに触れ聞かされ、少なからず影響を受けてきました。平成元年(1989年)から約10年間、中国の江蘇省蘇州市で蘇州山喜有限公司を合弁で設立し工場経営をしたり、平成12年(2000年)から数年間Tokyo Yamaki USA を米国LAにて設立し、「Kimono-ya 」を数店舗展開して海外市場開拓に挑戦してみたのも、創業者の近江商人スピリッツに強くインスパイアされたゆえに思われます。

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この記事を書いた人

たんす屋創業者
1954年 京都生まれ。1979年 慶応義塾大学卒業後、祖父が京都で創業し、約80年の歴史を持つ老舗呉服卸店 東京山喜株式会社入社。1993年 代表取締役社長に就任。1999年 リサイクルきもの「たんす屋」事業を立ち上げ、それから僅か7年弱で100店舗を超えるまでに成長を遂げる。2001年 同事業にて第11回ニュービジネス大賞 優秀賞を受賞。2006年 商業界より『たんす屋でござる』を出版。2020年4月 コロナウイルス感染拡大に伴った緊急事態宣言発令の影響もあり、民事再生法の適用を申請。同年9月にまるやま・京彩グループにたんす屋事業を譲渡。現在はまるやま・京彩グループの顧問を務めている。

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