父方の祖父 喜代蔵は私が生まれる5年前に他界したため、残念ながら私は喜代蔵と面識がありません。私にとっておじいちゃんといえば、母方の祖父 山田得三郎でした。前回も紹介させて頂いた通り、西陣の山田織物という機屋の三男坊でしたので、家業はお兄さんが継ぎます。そのため、尋常小学校を卒業後、祖父 得三郎は三条室町の老舗呉服問屋、千吉に丁稚奉公に出されます。千吉は「ちきち」と読み、創業は1555年という京都では知らぬ人はいない老舗中の老舗です。第11代西村吉右衛門貞恒さんが当主の時代です。
祖父から聞かされた話ですが、名古屋の老舗百貨店松坂屋の伊藤家からお嬢様が西村家にお輿入れされ、それはそれは大変なお支度だったそうで、当時の国鉄京都駅に貨物列車で到着したお支度の品々を、千吉の丁稚達が三条室町まで大八車で何往復もしたそうです。名古屋は嫁入り支度が全国的に最も派手な地域の一つで、その中でも最大級の老舗企業のお嬢様のお支度ですから、さぞかしご立派であったことは想像に難くないでしょう。
そこに生まれた跡継ぎさんが西村大治郎さんです。祖父 得三郎は、丁稚として大治郎さんの子守りもしていたと話していました。西村大治郎さんは京都織商の理事長を長年にわたり努められ、京都の経済界の重鎮でもあり、1986年にイギリスのチャールズ皇太子妃 ダイアナさんが来日され、京都に来られた折りに着物プレゼンターの大役を果たされたのは今も記憶に残る話です。
西村大治郎さんの著書を読ませて頂いた記憶がありますが、幼少のみぎりから東洋一の商人になると公言されておられました。祖父 得三郎は、千吉の番頭から独立を許され別家にさせてもらいます。当時の大店において、番頭さんが独立を許され別家になることは、比較的ポピュラーなことであったようです。私が物心ついた頃には、祖父 得三郎はすでに千吉の別家総代になっていました。祖父 得三郎は自分が修行させて頂いた千吉のことをとても大切に思い、感謝の念を持ち続けていた様で、毎月の先代の命日に西村家の墓所にお参りをしていたのを記憶しています。祖父は千吉さんのことを愛着を持って「ちきっつあん」と呼んでおりました。
私が東京山喜に入社した昭和54年(1979年)に直近の第17期(昭和53年5月)の売上高が約14億円の折り、主力仕入先でなおかつ京都を代表する着物メーカー千吉の年商は約280億円でした。翌期は、目指せ300億だったと当時の千吉の社員さんからお聞きしましたが、結果的にはその280億をピークにその後は右肩下がりが続くことになります。当時最も儲かっていた着物メーカー(潰し屋)は京朋でしたが、年商の規模的には千吉が一番でありました。祖父にとっては神様、仏様、千吉様といった感じで、私の結婚披露宴の主賓のご挨拶は西村大治郎さんにして頂きましたが、頂戴したお言葉は今でも記憶に残る名言であります。
その祖父 得三郎と父喜久蔵が昭和24年(1949年)に共同経営で創業した山喜商店は、時代の潮流をしっかりと背に受け順調に業容を拡大し、昭和34年(1959年)には日本橋芳町に東京店を出店しました。そして、喜久蔵の一つ違いの弟 太一郎が東京店長に就任します。しかしここで、祖父 得三郎が自身の長男 雅一郎を山喜商店の後継者に指名しました。娘婿の喜久蔵には、後継者の雅一郎をサポートするように指示します。山田得三郎の思考回路から押し図ればごくごく当然の判断であったと思われますが、中村喜代蔵商店の後継者としての意識が強かった喜久蔵にはどうしても承服し難い判断だった様です。ここからの喜久蔵の行動は結構素早くかつ過激でした。喜久蔵は義理の父親 山田得三郎に山喜商店の後継者を山田雅一郎にするのであれば、袂を分つ以外に無いと思いを伝えます。
結果的に山田得三郎の下した判断は、それならばやむを得ない、会社を分割しよう。東京店を喜久蔵に譲渡する。ただし、今後10年は京都市場には進出しないように。この様な条件でした。当時の山喜商店の売上の約9割は京都の本店の売上で、東京店の売上は1割ほどしかない状況です。東京店はまだ出店して間もなく、顧客もまだまだ少ない状況でした。
当時喜久蔵は大阪市内の営業を担当していましたが、主力のお得意先の一件が天神橋筋五丁目にあった、ますいわ屋さんという呉服屋さんです。和歌山から大阪にご兄弟で出てこられた狩谷益男さんと弟の岩男さんが戦後創業された呉服屋さんで、日の出の勢いで急成長されておられました。この昭和34年(1959年)にお兄さんを上回る商才に溢れた弟の岩男さんがお兄さんと袂を分って、東京に進出され東京銀座ますいわ屋を創業されます。
喜久蔵は義理の父親山田得三郎から提案された条件の厳しさを噛みしめながら、それでも独立の道を選びました。昭和36年(1961年)11月村田英雄の「王将」が大ヒットをします。「明日は東京に出てゆくからは、なにがなんでも勝たねばならぬ、空に灯がつく通天閣におれの闘志がまた燃える」とびきり音痴の親父がいよいよ昭和36年12月18日に山喜商店から独立して東京山喜株式会社を創業する前後にいつもこのフレーズを唸っていました。父親は東京山喜創業と同時に単身東京に行きますが、我々家族は昭和37年(1962年)5月14日に東京に引っ越します。まだ新幹線も開通しておらず、在来線特急「こだま」で約7時間かけて東京にきました。この年の暮のNHK紅白歌合戦に村田英雄が「王将」で出ることになるわけですが、なんと浅草のお得意先からその「王将」の着物を創業間も無い東京山喜が受注します。紅白で村田英雄の勇姿を観る親父の嬉しそうな顔を今も忘れられません。