第7回「痛恨のできごと」 | たんす屋創業者 中村健一の回顧録

前回の第6回で自分の人生に於いて痛恨のできごとは今までに2回あったとし、その内の2回目に関しては詳細に書かせていただきました。

今回は、人生最初の痛恨のできごとについて触れておきます。京都で生まれたことはこのコラムで以前書かせていただきました。小学校2年生の途中から東京に転校し、都立駒場高校から慶應義塾大学経済学部に進学します。

比較的順調なあゆみでしたが、思わぬ事故で人生が一変しました。長野県斑尾高原で競技スキーの練習中に転倒して、第三腰椎の圧迫骨折をしてしまいます。第三腰椎は縦に二つに割れ直角にお腹につき出した状態で更に第二と第三間、第三と第四間の椎間板がクラッシュしてしまいました。

搬送された飯山日赤病院では、レントゲンを撮った後、うちの病院では対応できない。慶應の学生さんなら慶應大学病院で診てもらってくれと言われ、その日の夜中に車で仲間達が慶應大学病院まで運んでくれました。

整形外科の担当医からは自分の腸骨を切り取って四つに割り、クラッシュした椎間板に二つずつ自家骨移植をしましょう、と提案をされます。それもお腹側から開腹し内臓を避けて腰椎の椎間板に腸骨を移植する大手術。これしか治療の方法はないと言われ、手術を決心しました。

いざ手術に臨むにあたり、誓約書に署名捺印することになりますが、そこにはこの手術の結果下半身が麻痺して生涯車椅子生活になるリスクがあります。その場合でも大学病院を訴訟しない旨が記載されていました。サインする以外に選択肢はありませんでしたが、ことの重大さに我が身の不始末を悔いるばかり。

「身体髪膚これを父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝のはじめなり」お袋に繰り返し言われていた言葉が骨身に沁みます。お袋には、のちに自分が死んだときには、本来はあと10年生きられたと思ってくれ。今回の大怪我で心配して最低でも10年寿命が縮まった、と言っていました。その母親は昨年92歳で他界しましたので、本来ならば102歳まで生きられたと思っています。まったく親不孝の極みです。

幸運にも手術は無事に終わりました。ただし、直角にお腹につき出した第三腰椎は、元に戻すことも取り除くことも出来ず、そのままにしておくことになります。そして自家骨移植して第二、第三、第四腰椎が一本の背骨になりました。本来ならば曲がるはずの椎間板が2箇所固定されて三本の腰椎が一本になっていますので、今でもヨガ教室で背骨を一本づつ曲げてと言われてもそうはできない事情があります。

約3ヶ月入院しておりました。大学3年生でしたが、1年休学を決心します。まさに痛恨の極みです。この入院中にギブスベットに仰向けで寝ながら他にやることもないので、本を読むことと、このピンチをどうやってチャンスに変えることができるかを考えました。

出した結論は、休学を活かしてアメリカに短期留学すること。退院してまもなく鋼入りのコルセットをしたまま、カルフォルニアのロングビーチ大学に留学します。この間、台湾出身の中国人の友人ができたことで、英語と中国語が比較的得意になりました。

結果的に、のちに1989年から約10年間中国の江蘇省蘇州市で工場経営する折に中国語は大いに役立ちましたし、2000年から数年間アメリカのロサンゼルスで「KIMONO-YA」と言う看板で「たんす屋」のアメリカバージョンを展開する折りにも英語は大いに役立つことに。

しかし、このピンチから受け取った本当のチャンスは、これらの比ではないくらい大きなチャンスでした。実は、留学当初はコルセットをしながらも元気にしておりましたが、途中で激しい腰痛と両足の痺れに襲われます。痛くて夜も眠れない状態が続きました。大学内にある病院で診てもらったところ、レントゲンを見たドクターは、素晴らしい出来の手術だ、うちの病院でできることは理学療法で痛みの緩和をすることぐらいで、根本的に治療を望むならばこの手術をしてもらった病院で再度手術をしてもらうことを勧める、と言われます。なんとか理学療法で騙し騙し痛みを抑えて、帰国しましたが、一向に良くなりません。

そんな時に京都に住む叔母から、近所にとてもよく効く「おさすりさん」があるから、一度来るように勧められました。いわゆる民間治療ですが、どこに行ってもよくならないし、慶應大学病院でも理学療法か再手術しかないと言われ困り果てていましたので、すがる思いで京都に行きます。当時すでに80歳を超えている様なお婆さんが治療してくれるのですが、1回目の治療で腰痛と両足の痺れが嘘のように消え、その日の晩から久しぶりに仰向けで寝ることができました。

そのマジックに魅せられてしばらく通うようになったのですが、この治療院の近くにある、常宿にしていた民泊のご夫婦から、現在の家内を紹介され結婚をすることに。民泊のご夫婦は、私が長期に滞在していた理由をよく知っていてくれましたので、安心してご紹介を受けましたが、後日家内からは、背骨が折れている人とは聞いていなかったと言われています。二人の子供の恵まれ、三人の孫に恵まれなんとか結果オーライということにしてもらっておりますが、これが痛恨のできごとから受け取った、本当の意味で我が人生の最大のチャンスでした。

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この記事を書いた人

たんす屋創業者
1954年 京都生まれ。1979年 慶応義塾大学卒業後、祖父が京都で創業し、約80年の歴史を持つ老舗呉服卸店 東京山喜株式会社入社。1993年 代表取締役社長に就任。1999年 リサイクルきもの「たんす屋」事業を立ち上げ、それから僅か7年弱で100店舗を超えるまでに成長を遂げる。2001年 同事業にて第11回ニュービジネス大賞 優秀賞を受賞。2006年 商業界より『たんす屋でござる』を出版。2020年4月 コロナウイルス感染拡大に伴った緊急事態宣言発令の影響もあり、民事再生法の適用を申請。同年9月にまるやま・京彩グループにたんす屋事業を譲渡。現在はまるやま・京彩グループの顧問を務めている。

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