第18回「呉服問屋の限界を実感」 | たんす屋創業者 中村健一の回顧録

中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利80周年記念式典
引用元:Wikipedia 中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利80周年記念式典

主力得意先とのお取引中止を決めたことで年商25億円から21億円に売上を落とし、数千万円の赤字に転落した東京山喜の再生を目指して、社長就任後に呉服問屋としてのシナリオを描き、4年で年商37億4千万円と1億円に近い経常利益を上げることができました。売上増の内容は、シルクアパレルで約10億円、中国生産の着物と帯の仲間売で約5億円、そしてジュエリーの展示会販売会で約5億円の合計約20億円です。一方従来の着物専門店に呉服を卸す売上は、バブル崩壊後の市場規模縮小の影響もあり、毎年減少傾向にありました。

その様な状況下、私の戦略は改革開放をすすめる中国の徹底活用です。1989年の天安門事件で中国の民主化はフリーズしましたが、鄧小平の推し進める改革解放は1992年の「南巡講和」により、社会主義市場経済が明確化しました。また、この年に日中国交正常化20周年を記念して、天皇・皇后両陛下が中国を公式訪問されます。ある意味戦後の日中友好の絶頂期で、日中友好はある種のブームでした。

先日、抗日戦争勝利80周年記念行事を、習近平国家主席がプーチン大統領と金正恩総書記を招いて大々的に挙行した映像を見て、日中友好ブームのなかでも粘り強く反日教育を継続し続けてきた彼の国の執念を感じずにはいられませんでした。

私は、1989年3月から、たんす屋を立ち上げた1999年9月までの約10年間で延べ100回の訪中をしました。平均して3泊4日の短期出張がメインでしたが、それでも約400日、つまり約1年は中国に滞在していたことになります。1995年3月20日の地下鉄サリン事件も蘇州市のホテルのテレビで見ていました。いつも利用する日比谷線人形町駅も被害者が出ていると聞いて、人形町駅が本社の最寄駅である弊社社員は大丈夫かと心配になったのを覚えています。

当時改革解放政策と日中友好ブームに乗って、蘇州山喜有限公司という合弁会社を設立して董事長に就任しました。当時の中国は海外からの投資は大歓迎です。何よりの魅力は人件費の圧倒的な差でした。当時の中国は人民元と兌換券の二重構造で、外貨と人民元の公式な交換レートが存在していなかったため正確なことはわかりませんが、工場で働く人の人件費は、同程度の仕事をする日本人と比較して100分の1の感覚でした。

現在は存在しない兌換券ですが、当時は外貨と交換可能な唯一の紙幣で闇での換金は盛んであり、兌換券100元は人民元の180元から190元になっていました。更に着物や帯のコストに最も重要なファクターになる生糸価格は約10分の1です。主な原材料が10分の1で人件費が100分の1だとすれば、更にそこに社会主義市場経済で改革解放政策を推し進めると革命的変革が期待できます。

この恩恵を遺憾なく取り込んだのが、柳井正氏が率いるユニクロです。黎明期のユニクロは、自社で企画した製品を中国の協力工場で格安に生産して自社店舗で販売する事を強みと言っておられました。SPA(Specialty store retailer of Private label Apparel)と言う言葉を使って自社をアピールしたのもユニクロが最初ではないでしょうか。

私も、中国での和装品の製造に色々と挑戦しました。比較的容易に輸入できたのは、帯関係です。明綴帯や刺繍加工を施した帯は非常に売れ行き好調でした。一方で着物は、生地のまま輸入することは輸入枠を持たない弊社にとって、当時はやっかいでした。そこで、蘇州山喜有限公司の工場のスクリーンで染めた小紋を、胴裏と八掛をつけて袷の着物に仕立て上げて輸入しましたが、当時の着物市場では正絹の仕立て上り着物はほぼ存在せず、苦戦しました。

中国での生産は常にロットが大きくて、従来の呉服前売問屋の売先とマッチしづらいために、京都支店から独立した東美事業部を通して、京都や名古屋の大手問屋に卸していました。それでも、継続して右肩下がりの着物市場に限界を感じ、シルクアパレルに挑戦することに。シルク素材に特化したアパレルメーカーは非常にレアでした。

当初は、「シルクバザール」と言う自社ブランドを立ち上げて、布帛製品とカットソーを中心にインナー、ナイティ、からセーターなどのアウターも手がけました。素肌に優しい素材として、健康志向にもマッチして急拡大していきます。卸し先はほぼすべて、非呉服チャンネルでした。やがてレリアンやナイガイなどの大手アパレルメーカーからのOEMが主流となり約10億円の事業部になっていきます。

そしてご縁があって広島の宝飾メーカーの社長とタッグを組んで立ち上げた、従来の呉服専門店の顧客にジュエリーだけのホテル催事を仕掛ける事業部も、一巡目は好調で2年目には上代ベースで約10億円、弊社の下代ベースで約5億円になりましたが、目先のチャンネル変更で出来た売上で、将来的に継続して呉服チャンネルでジュエリーが売れ続けることには疑問が残りました。

当時の私の頭の中には、これからは、呉服問屋でもなく、着物メーカーでもなく、着物市場でのSPAしかないと言う思いがふつふつと湧きあがっていました。

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この記事を書いた人

たんす屋創業者
1954年 京都生まれ。1979年 慶応義塾大学卒業後、祖父が京都で創業し、約80年の歴史を持つ老舗呉服卸店 東京山喜株式会社入社。1993年 代表取締役社長に就任。1999年 リサイクルきもの「たんす屋」事業を立ち上げ、それから僅か7年弱で100店舗を超えるまでに成長を遂げる。2001年 同事業にて第11回ニュービジネス大賞 優秀賞を受賞。2006年 商業界より『たんす屋でござる』を出版。2020年4月 コロナウイルス感染拡大に伴った緊急事態宣言発令の影響もあり、民事再生法の適用を申請。同年9月にまるやま・京彩グループにたんす屋事業を譲渡。現在はまるやま・京彩グループの顧問を務めている。

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