第8回「着物人生のスタート」 | たんす屋創業者 中村健一の回顧録

昭和55年1月、新社屋完成式典当日

紆余曲折を経て、1年間休学をした後に無事大学を卒業し、結果的に東京山喜に入社することになりました。前回ご説明した通り、留学から帰国してなんとか卒業したものの、体調は最悪の状態です。

留学中に金融機関への就職を検討した結果、アメリカの銀行の東京支店を受験し、内定を頂戴しておりました。一方父親は、お取引先のグンゼ産業に就職をお願いして内諾を貰っていたそうです。しかしいよいよ3月の入社が近づいても一向に腰痛と両足の痺れが改善せず、父親に頭を下げてグンゼ産業にお断りを入れてもらいました。

銀行のデスクワークならば、なんとかごまかせるのではないかと淡い期待を持って直前まで就職を検討したのですが、とてもフルタイムに耐えられる状態まで改善せず、内定を頂戴した外銀にお断りをすることに。ドタキャンでしたので、きついお叱りを受け、今でも申し訳なく思っています。

昭和54年(1979年)4月に父親と相談の結果、父親が創業した東京山喜に入社いたしました。経理課に配属してもらい、なおかつ午後3時で帰宅する条件で、同時入社の女子短大卒の初任給の70%でのスタートです。屈辱的社会人デビューでした。今から45年8ヶ月前のことですね。

着物業界は、おそらく第一次オイルショック直後の昭和49年(1974年)にピークを迎えたと思われます。物価の高騰で生糸相場も値上がりし、結果的に実際の市場の成長以上に業界の数字は拡大しました。私が卒業した昭和54年5月は東京山喜の第18期の決算です。年商約18億円で前期比120%程度の伸びでしたが、堀留の呉服問屋とすると、中堅と言うよりも中小の中程度でした。

トップの市田さんは年商約1,000億円で、そのうち約500億円が呉服の売上、塚本さんの年商が約その半分くらいで、年商100億円を上回る規模の呉服問屋だけでも、荒庄鳴河、吉野藤、丸正、又エ西村などが名を連ねていた時代です。東京織物卸商業組合(織商)の合同入社式に出席させて頂きましたが、又エ西村の新入社員が約50人で最多(市田はじめ大手は自社入社式があり合同入社式には不参加)でしたので、又エ西村の新入社員が代表して新入社員の挨拶をしたことを記憶しております。

その年の秋、たしか10月に又エ西村が自己破産をしたのは、着物業界に入って最初のサプライズでした。現在では市田と塚本が経営統合をしてツカモト市田となり、往時両社で約750億円あった堀留の呉服問屋としての売上は、現在では10億円を下廻り、セグメントとして赤字の状況です。丸正はヤマノのグループ会社の堀田丸正として存続しておりますが、荒庄鳴河、吉野藤、又エ西村は消滅しました。中堅、中小は更に悲惨な状況です。

私が入社した折の東京山喜の本社は、日本橋堀留町2-10で、京都の呉服問屋京商さんの持ち物で店子をしておりました。呉服関連の販促物会社ナカチカの向かいで、呉服問屋 坂田のお隣です。坂田は、現在たんす屋株式会社を運営していただいております、まるやまグループの丸山会長のお兄様が富山から出てきてお勤めになっておられた会社でした。当時年商規模が約20億円前後で弊社と似た規模でしたが、圧倒的な主力のお得意先が鈴乃屋さんであったと記憶しております。

本年4月に鈴乃屋さんをまるやまグループが事業譲受し、現在ではたんす屋株式会社と同じ株式会社紅輪の子会社であることを思うと不思議なご縁を感じざるを得ません。ちなみに、お兄様から「呉服はいいぞ、儲かるぞ、」と聞かされた丸山会長は、高校を卒業後、地元富山から日本橋堀留の呉服問屋に就職先を求め、横倉に入社されました。

東京山喜は、私の入社した年の暮れに日本橋人形町に自社ビルを新築して移転をします。この地が最後まで東京山喜の本店登記地になりますが、横倉と背中合わせのお隣でした。横倉の主力得意先が東京銀座ますいわ屋で、仕入にこられた狩谷岩男社長を横倉社長が夜のご接待をするために、当時番頭の丸山会長が車の運転をして銀座にご案内されていたそうです。

その新社屋で引き続き経理を3年しました。呉服問屋に於ける花形は、なんと言っても営業です。腕のたつ人材は営業マンとしてお得意先をルートセールスし、年間1億円を上回る売上を作っていました。ただし、当時の営業マンは体力勝負の部分が大きかったので、腰痛で両足の痺れがあるようではとても役に立ちません。

しかし後になって考えると、試算表をつくり、月次決算をして銀行と交渉をすることは、経営者になるためには必要不可欠な学びであったと感じます。この間、自分としてはどの様にして営業に出られるかを考えていました。

着物業界は、昭和49年、50年あたりで天井を打った感はありましたが、それでもまだ、2兆円市場と呼ばれ、現在の約10倍の規模です。その中で自分が考えついたのは、新規開拓でした。新規のお客様を開拓するのであれば、手ぶらで出かけて行き、自社の展示会に呼んで来れば、あとはベテランの先輩達がなんとかしてくれます。

ということで、4年目からは、新規のお客様を開拓すること専門で、営業に出ることになりました。我が着物人生のスタートです。

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この記事を書いた人

たんす屋創業者
1954年 京都生まれ。1979年 慶応義塾大学卒業後、祖父が京都で創業し、約80年の歴史を持つ老舗呉服卸店 東京山喜株式会社入社。1993年 代表取締役社長に就任。1999年 リサイクルきもの「たんす屋」事業を立ち上げ、それから僅か7年弱で100店舗を超えるまでに成長を遂げる。2001年 同事業にて第11回ニュービジネス大賞 優秀賞を受賞。2006年 商業界より『たんす屋でござる』を出版。2020年4月 コロナウイルス感染拡大に伴った緊急事態宣言発令の影響もあり、民事再生法の適用を申請。同年9月にまるやま・京彩グループにたんす屋事業を譲渡。現在はまるやま・京彩グループの顧問を務めている。

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