第9回「新規開拓」 | たんす屋創業者 中村健一の回顧録

昭和59年当時の矢口呉服店 右手の紅白の幕がかかっているお店が矢口呉服店で、手前のネクタイの男性が矢口社長、後ろの大柄な男性が矢口専務。

東京山喜に入社して3年が経過した昭和57年6月から、ようやく憧れの営業に出ることになりました。弊社はまだまだ販路拡大を目指していましたので、営業部長の直属でとにかく近場の新規顧客の開拓を目指します。着物の業界雑誌や業界新聞を頼りに、弊社とお取引のない有力な呉服専門店をノミネートし、飛び込み営業をしました。事前に電話をかけるとほぼ電話口でシャットアウトされるので、結局は粉砕覚悟での飛び込み営業です。

この新規開拓の営業を丸二年させて頂きました。結果的に24ヶ月で24件の新規顧客とお取引がスタートします。毎月一件ずつ新規顧客を開拓した計算になりますが、道中は、二ヶ月、三ヶ月空振りが続いて落ち込む時期もありました。それを乗り越えて新しい有力顧客とご縁が始まる喜びはひとしおであったことを今でも覚えております。

一件一件思い出深いお得意先ですが、中でも最も印象に残っているお得意先は、横浜の伊勢佐木町商店街の矢口呉服店でした。京浜急行電鉄の黄金町駅を降りて伊勢佐木町商店街に入り関内に向かってほど近くに、矢口呉服店はあります。間口五間ほどで、冬の夕方外から眺めていると若旦那らしき人が、火鉢にあたりながらタバコを吸っておられました。ガラス戸に、京呉服 矢口呉服店と書かれていて、なかなか吟味された京呉服が陳列されていたのを記憶しております。

意を決して飛び込んで話を始めました。若旦那は昭和22年生まれでしたので、当時私が27歳、矢口さんは34歳ぐらいでしたが、顔色が浅黒く大柄で第一印象は怖い人です。実際の商売はほとんど任されておられ、専務と呼ばれていました。支払いはお父様の社長がされており、お父様は戦時中に満州で関東軍に所属されておられた陸軍の軍人だったそうです。

私の上の世代は団塊の世代で、まさに終戦後外地から帰国した大勢の退役軍人が結婚してできた戦争を知らない子供たちで、年間280万人以上生まれました。現在の年間出生数が80万人を割り込む状況とは隔世の感があります。

何故かこの矢口専務と気が合い、着物に関してほとんど素人の私と真剣に取引をして頂きました。新規開拓を2年経験した後、私は商品部の課長として西陣の帯を中心に仕入担当になり、3年経験を積むことになりますが、この間の約4年半、ほぼ毎週1回ライトバンに商品を積んで伊勢佐木町商店街まで売込みに行きます。

おそらくこの間200回以上、伊勢佐木町商店街まで夕方の6時以降に車で行きました。夕方6時以降に行く理由が二つあります。一つ目は、新規開拓課にも商品部にも営業車の割当がなかったため、最も早く帰社した営業車を利用して商品を積み込み出かけたこと。二つ目は、午後6時以降に伊勢佐木町商店街に車の乗り入れが可能になり、矢口呉服店の目の前に車を駐車できたため、非常に商売がしやすい環境だったことです。

私の記憶する限り、一度も空振りしたことがありませんでした。矢口呉服店とのお取引額も初年度の1,000万円から、翌年は2,000万円、3年目は3,000万円と順調に拡大し、あっという間に矢口呉服店の主力問屋となることに。当時、ほとんどすべての売上を店頭販売で作られている矢口呉服店での経験は、消費者の好みが非常にダイレクトに反映され、自らが商品を仕入れる際の良いベンチマークになりました。

矢口呉服店跡地 伊勢佐木町6丁目、2024年12月撮影

お陰様で短期間に商品部の課長として自信もつき、帯の仕入担当から振袖、七五三とアイテムを広げていきます。この商品部時代に、のちに会社の営業形態を大きく革新するような企画を生み出すことになるのですが、その企画が「中国刺繍きもの展示販売会」でした。

従来の東京山喜の営業スタイルは、京都の室町や西陣で仕入れた着物や帯を丁寧に呉服専門店に卸すものです。お得意先の中にはNC(ナショナルチェーン)と呼ばれる大型専門店も含まれていましたが、基本的な営業スタイルは同じでした。

昭和47年(1972年)の日中国交正常化に伴い、戦後長年にわたり途絶えていた中国とのビジネスが動き始めます。最初に生糸と白生地の輸入が友好商社のチャネルを通じて始まりました。人件費の圧倒的な差から非常に安価で良質な生糸や白生地が輸入されましたが、クオーター(輸入枠)と呼ばれる制限の下、限定的なビジネスでありました。

昭和53年(1978年)鄧小平によって打ち出された「改革解放政策」によってドラスチックに日中間の貿易が変革していきます。先ず中国側の変化は、生糸及び絹織物に関する商材はすべてシルク公司を経由しなければ輸出が不可能だった状況が絹織物と絹織物の二次製品は輸出権限を有する国営公司であれば輸出が可能になりました。これは非常に大きな変化です。

日本側でも従来は中国との輸出入は中国との友好商社に限定されていましたが、この制限もなくなりました。これらの変化は、実際非常に大きな変革でしたが、現場では実はそれほど急速には変化が起きていません。それは日中双方で長年にわたり既得権益を保持していた巨大企業が彼らの利権を守るために有形無形の制限を既存取引先に課していたためだと思います。

そこに風穴を空けるきっかけとなったのが「中国刺繍きもの展示販売会」でした。この企画は私が社内で起こした最初のイノベーションであり、業界に少なからずインパクトを与えたと思っています。

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この記事を書いた人

たんす屋創業者
1954年 京都生まれ。1979年 慶応義塾大学卒業後、祖父が京都で創業し、約80年の歴史を持つ老舗呉服卸店 東京山喜株式会社入社。1993年 代表取締役社長に就任。1999年 リサイクルきもの「たんす屋」事業を立ち上げ、それから僅か7年弱で100店舗を超えるまでに成長を遂げる。2001年 同事業にて第11回ニュービジネス大賞 優秀賞を受賞。2006年 商業界より『たんす屋でござる』を出版。2020年4月 コロナウイルス感染拡大に伴った緊急事態宣言発令の影響もあり、民事再生法の適用を申請。同年9月にまるやま・京彩グループにたんす屋事業を譲渡。現在はまるやま・京彩グループの顧問を務めている。

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