
経理を3年、新規開拓の営業を2年、商品部の課長を3年経験し、新たな顧客開拓で実績を残し、中国刺繍着物販売会という新たな企画で全国の著名百貨店と取引がスタートしたことで、社内でも一定の評価を得ることができました。しかし、着物市場はすでにピークアウトし、既存の顧客に従来の商品を卸すだけでは、明らかに限界が見えて来ていました。
そのような状況下、借家住まいの高倉通り二条の京都支店が、大家から建て替えのため退去の通告を受けました。社内では、対応策として意見が二分します。当時ようやく年商20億円を超えた中、京都支店の年商は1.5億円と1.8億円を行ったり来たりで、全体の10%にも満たず収益も厳しい状況でした。
着物市場に於いては京都の室町が断トツの集散地で、堀留(東京)、名古屋、大阪は明らかに格下の集散地でした。理由は明確で、室町は呉服問屋のメッカにとどまらず、潰し屋とよばれる京友禅のメーカーの集積地で、更にわずか北に数キロの西陣は帯地のメーカー、機屋が乱立し、更に白生地の最大産地丹後が京都府の北部に位置し、高級縮緬の生産地長浜も京都からほど近い湖北に位置していたからです。
着物の産地はこの他にも全国に点在していますが、京都の集積力は別格で、奄美・鹿児島の大島紬、博多織から十日町、結城・桐生・米沢の織物などの多くも、一旦は室町を経由して全国の地方問屋や小売店に卸される仕組ができていました。それゆえに、室町の大手呉服問屋の多くは、全国をカバーするために堀留に東京支店を出店していたのです。
一方、堀留の呉服問屋は、一部の例外を除いて室町に京都支店を出すことはありません。例外は、市田と塚本という当時の呉服問屋No.1とNo.2の東証一部上場企業です。それ以外にも東京御三家と呼ばれた、北秀、菱一、近藤伝の三社の専門問屋が、東京友禅や江戸小紋といった東京ならではの商材をメインに京都支店を開設していました。
このコラムで前述しました通り、弊社は室町の呉服問屋 山喜商店の東京支店が、10年間は室町に出店しない事を条件に、独立創業した呉服問屋でしたが、満を持して独立10年後の昭和46年(1971年)に創業の地 京都に進出を果たしました。
大家からの退店要請を機に京都支店を撤退しようと言う意見は、それなりに合理性がありました。京都支店の出店から十数年が経過していましたが、残念ながら明確な存在感も数字も示すことが出来ずにいたわけですので、経営資源を人形町の本社に集中した方が得策だという考え方はごく自然な流れでしょう。
実際にこの頃近藤伝は、大口の不良債権発生を機に京都支店の撤退を決めていました。当時商品部の一課長の私は、この議論を聞いてこれは空前のチャンスだと直感たのです。そこで私は下記の三つの条件を前提に自らが京都支店長になる事を提案しました。
①私が取締役京都支店長に就任する。
②高倉二条から祖父喜代蔵が中村喜代蔵商店を創業した地、室町三条あたりに移転先を購入する。
③京都支店の自治権の向上、具体的には仕入れ権限を持ち在庫枠を確保する。
当時の京都支店長は白井で、課長待遇でした。白井は後に私が社長に就任し、たんす屋をスタートする折に東京の本社に単身赴任していただき、長く常務として弊社のNo.2を務めていただきました。
高倉二条は室町の中心からは少し離れて、呉服問屋のロケーションとしては少し外れていました。更に当時の京都支店には仕入れ権限が無く、本社の商品部から商品供給を受けていましたが、ご存じの様に関東と関西では消費者の好みに違いがあり、本社の商品部からの商品供給だけでは顧客様に充分な対応が難しいのが実情でした。結局は、当時の京都支店長白井が仕入先から委託で関西圏の顧客様に対応する商材を補っておりましたが、当然ながらその場しのぎの域を越えられずにいました。
お陰様で、父親の喜久蔵社長・叔父の太一郎専務・更に常務の清水・島も私の提案にあっさりと賛成してくれました。私にすれば、本社にいる限り上記の役員以外にも部長、次長らベテラン社員が何人もいて、頭がつかえる感が否めない状況でしたが、取締役京都支店長として着任すれば、当時の京都支店メンバーは全員私よりも年長者ではありますが、全員部下になり、本社から離れた地で思いきり手腕が発揮できると考えていたわけです。
同時に、やはり着物市場の中心地 京都の流通の中で自らのネットワークを構築したいと願っていました。その事が、いずれ本社に戻って社長に就任する折に大きな財産になると考えていたのです。
この後、新しい京都支店の候補地探しをスタートしますが、ほどなく室町三条上る東側に約50坪のほどよい候補地が見つかり、4階建の新社屋を建設する段取りになりました。更に、修学院に新築の戸建を購入し社宅にし、昭和62年(1987年)の6月、私は新婚の家内と娘を連れて取締役京都支店長として転勤しました。
時に満32歳でした。生まれ故郷の京都に24年ぶりの帰郷です。ピカピカの新社屋と新築の社宅、未知の関西市場に臨み希望に満ちていました。