昭和47年1972年9月の日中国交正常化は非常に大きなインパクトが各方面でありました。象徴的なシンボルは、10月に両国友好の証に贈られた二頭のパンダ、カンカンとランランです。11月に上野動物園でパンダのお披露目が始まると、多くのお客様が押しかけ、メディアも連日その様子を報じました。それまで永年にわたり竹のカーテンで覆われていた中国大陸の様子が徐々に見えてきたのです。
その後更に中国残留孤児の帰還が始まります。おもに、満州に取り残された日本人孤児たちが、肉親を求めて帰還がスタートしました。当時の中国は毛沢東の進めた文化大革命の影響で経済的に非常に厳しい状況です。残留孤児の多くは終戦当時、乳幼児から10歳に満たない子供がほとんどでしたので、戦後27年が経過すると20歳台後半から30歳台後半の年齢に達していましたが、中国人養父母に育てられ日本語が全く喋れない状態でした。
そこで肉親探しに帰国した残留孤児の通訳を買って出たのが、日中友好協会の職員の方々です。日中友好協会は、両国の国交回復以前から地道な草の根運動を民間レベルで継続して来られた団体でした。当時の会長は宇都宮徳馬さんだったと記憶しておりますが、現在の会長宇都宮徳一郎さんのお祖父様です。当時私は、アメリカ留学から帰国し父親の会社に入社後、会社帰りに飯田橋にある日中学院で中国語の勉強を始めていました。日中学院は当時は善隣学生会館内にありましたが、戦前は満州国の留学生会館だったそうで、往時を偲ばせる歴史的建造物であったことを記憶しております。
和装業界でも中国大陸への期待が高まりを見せていました。特に昭和48年1973年のオイルショックで生糸と白生地の暴騰をきっかけに中国から良質で安価な素材を安定的に継続して輸入することが重要課題になっていたのです。当時弊社社長の父親喜久蔵は、取引先のグンゼの案内で訪中し、上海、蘇州、杭州のシルク関連工場を視察した後、興奮気味にその様子を伝えてくれました。
1970年代の中国にとってシルク関連商材が外貨獲得の主力であり、シルク公司は国家の儲けがしらでその主力顧客の一社がグンゼだったわけですので、市内の見学にはパトカーが先導して赤信号も関係なく目的地に案内してくれたそうです。更に京都の着物メーカーや帯メーカーが中国の素材と人件費の安さに注目して、生糸と白生地以外に新たな加工地として注目をし始めました。
中でも中国の三大刺繍の一つ、蘇州刺繍に目をつけたメーカーが着物や帯に刺繍加工を施して輸入しはじめます。更に御室の綴れ織のルーツである明綴れに帯メーカーが目をつけて明綴帯の生産もはじまりました。刺繍も京繍と言って伝統工芸がありますし、綴れ織も爪かき本綴れを頂点に帯地としてすでに人気でしたが、中国の伝統工芸の蘇州刺繍を施した着物や明綴れ帯の精緻さは、息を呑むほど工芸度の高い逸品ものであったのです。
弊社の主力仕入先の着物メーカー、堀江が中国刺繍着物の草分け的存在でした。私は着物に精緻な中国刺繍を施した着物を従来通りの流通でコツコツと販売するだけにとどまらず、時代の潮流に乗せて一気に多くのお客様に紹介する為の企画を考えます。その時目に留まったのが、連日テレビで報道されていた中国残留孤児の通訳に出てくる日中友好協会という組織でした。
私はこの中国刺繍着物という新商品を日中友好というブームに乗せてプロモーションする為に企画を練り、神田美土代町にあった日中友好協会の本部に出向きます。当時、日中友好協会の事務局長の坂田さんが、まだ20代の若い呉服問屋の一課長のプレゼンを熱心に聞いてくれました。
日本の伝統衣装の着物に中国の伝統工芸の刺繍を施す。それもかつての呉の都、蘇州で。そもそも呉服のルーツは絹の産地呉の都の絹織物にあったといわれていますので、シナリオ的にも日中友好のシンボルとしてアピールできます。事務局長の坂田さんは、非常に高い関心を持ってくれました。そして、日中国交正常化を契機に一気に日中友好の気運を全国的に普及する為の具体的イベントを一緒に構築することになります。
坂田さんは、公益社団法人の事務局長と思えぬほどのアイデアマンで行動力があり、先ずは、弊社と着物メーカー堀江と日中友好協会で、「中国刺繍着物全国普及協会」を立ち上げ、弊社の専務で私の叔父の中村太一郎に会長になっていただきました。その後中国大使館に赴き、これから中国刺繍着物を全国に普及すべく、全国の一流百貨店で「中国刺繍着物展示販売会」を開催していく予定ですので、後援をお願いしたいと当時の中国大使にお願いに行ったのです。
ここは、永年の日中友好協会の信用力で、今後「中国刺繍着物全国普及協会」が主催する「中国刺繍着物展示販売会」には、日中友好協会を通じて申請すれば、その都度後援をいただけることになりました。それまで一件の百貨店ともお取引実績の無かった弊社が、結果的にこれを機会にその後の約5年間、北海道から九州沖縄までの全国有名百貨店で200回を超える「中国刺繍着物展示販売会」を開催させていただくことになったわけです。これが、私が社内で起こした最初のイノベーションでした。